先立つ不孝は…

緊迫の現場

人命救助を生業とする消防官、そんな中でも出場件数、稼働時間がぶっちぎりの救急隊は生死に関わる事案も多く経験します。良くも悪くも人の死にすら慣れていく。

死に慣れるなんて不謹慎に感じるかもしれませんが、キラリと光る劇的な救命なんてひとかけら…、零れ落ちていく命の方が圧倒的に多いのです。

辛い現場のことも忘れないといけない、次の現場があるのだから。でも、ふと思い出してしまう、胸に突き刺さっている忘れられない景色はあるもので…。


出場指令

「救急隊、消防隊出場、〇町〇丁目…〇アパート〇号室、S方、男性は縊首、意識呼吸なし、通報は〇号室のJさん」

との指令に同じ消防署の救急隊とポンプ隊がペアで出場しました。縊首(いしゅ)とは首吊りのことです。現場のアパートは担当区域、5分程度で到着できる距離でした。救急隊員は119番通報があった電話に連絡します。

(119コールバック)


出場途上

隊員「もしもし、ご通報いただいたJさんでしょうか?救急隊です」
Jさん「お願いします…ああぁ…お隣なんですけど…あああぁぁぁ…お母さん…救急隊からです、ああああぁぁあ…ちょっと待って下さい、ここを離れます」

電話に応答してくれたのはJさん、指令先の隣人でした。Jさんの後ろで何やらすすり泣くような声が聞こえます。電話越しにも只ならぬ雰囲気が伝わってきました。Jさんは隊員からの質問を制止し場所を変える様子がありました。

Jさん「すみません、自分の部屋に戻りました、隣の部屋なんですけど、若い男性が死んでいます」
隊員「死んでいる?呼吸も脈もないですか?」
Jさん「ええ、首を吊っていて…もう身体が冷たくて固まっています」
隊員「救急隊が到着するまでどうにか心肺蘇生法をやっていただきたいのですができませんか?」
Jさん「心肺蘇生…いや…申し訳ない…とてもできないです…身体が汚れているし、お母さんが抱きかかえていて、とても無理です…」
隊員「お母さんが?」
Jさん「ええ、悲鳴が聞こえたから様子を見に行ったら玄関のところに女性が腰を抜かしたように座り込んでいて…部屋を覗き込んだら男性が首を吊っていて、それで119番しました」
隊員「今も吊っている状態ではないですか?」
Jさん「いいえ、私が包丁を持ってきてロープを切って降ろしました、彼を抱きかかえて泣きじゃくっています、多分お母さんだと思います」
隊員「分かりました、間もなく到着できます、現場でもお話を聞かせてください」

聴取した内容を隊長、機関員に報告します。

隊長「もう硬直しているって?」
隊員「はい、体が固まっていると…心肺蘇生を依頼しましたが、汚れているのと、母親が抱きかかえていて狂乱状態みたいです…とてもできないと…」
隊長「了解、資器材はCPRに備えてすべて準備、ポンプ隊にも無線を入れろ、各自感染防止に配慮」


現場到着

指令先は新しいアパート、入り口には通報者のJさんが手を振っていました。

Jさん「こっちです、お願いします、お母さんが…かなりパニックになっています」
隊長「分かりました、ご協力ありがとうございます」

部屋に入ると呆然とした様子で座り込み若い男性を抱きかかえている女性がいました。

母親「あああぁぁ…ああぁぁ…あぁあ…」
隊長「…この方のご家族ですね?救急隊です」
母親「ああ…あぁぁ…」
隊長「患者さんの様子を確認させてください」
機関員「ご家族はこちらへ、救急隊が息子さんの様子を確認させていただきますから」

隊長に促され母親は機関員が介助し傷病者から離れました。

隊長「観察開始…」
隊員「了解です…」
隊長「痛み刺激…反応なし、レベル300…」
隊員「呼吸、脈拍ありません、モニター準備します」

傷病者は20代の男性でSさん、大学生でした。全身に冷感、硬直が及んでおり人工呼吸をしようにも顎が固まってしまい開口もできない状態でした。原則は医師しかできない死の判断ですが、医師の判断を仰ぐことなく死と判断できる社会死の要件に当てはまりました。

隊長「CPRは実施しない、社会死判断…」
隊員「了解です」
隊長「お母さんですね…こちらへ、息子さんの状態なのですが…」

隊長が母親を傷病者の下まで呼び寄せ社会死の判断について説明しました。呆然とした様子で隊長の話を聞いた母親はすすり泣きながらも何度も何度も頷くのでした。

隊長「…残念ながらお亡くなりになってかなりの時間が経っているようです、我々にお役に立てることはありません、警察官に引き継がせていただきます」
母親「はい…わか…分かり…ました…ああぁああぁぁ…」

母親は息子の汚れてしまっている身体など気にする様子もなく、再び彼を抱きしめ泣き続けたのでした。

「不搬送 社会死」


現場引揚

ポンプ隊は先に引き揚げ、隊長は後着した警察官と共に状況の確認、機関員は通報者のJさんからの状況聴取、隊員は資器材を撤収しました。

機関員「これまでの人生で聞いたことない尋常じゃない悲鳴を聞いたから玄関を開けたら、あのお母さんが腰を抜かしていたって…」
隊長「そうだろうな…母親にとってこれ以上ない最悪の景色だ…」
隊員「そうですね…でもオレもあの景色は多分、忘れられないです…」
機関員「オレもだ…辛いよな…」
隊長「…〇大学の学生だって、先週から連絡が取れないから心配した母親が訪ねて来たらって訳だ…」
隊員「…となると、亡くなってから1週間くらい経っているかもしれないですね」
機関員「この手の現場でいつも思うんだよ…オレはろくな親孝行なんてしてこなかったけど、親より先に死んだらいけないって…先に死ぬのは最悪の親不孝だ…」
隊長「そうだな…ましてや自殺なんて…」
隊員「そうですね…親は半狂乱するほどの辛い思いをするのだから…あんな様子を見たら…」

あの母親の心情を思うと胸が締め付けられます。でも、こんな現場のことだっていつまでも引きずっていられない。そう思っていても、ふとあの景色を思い出すことがあるのです。忘れられない辛い現場…。

元気に働いて、家族と楽しい時間を過ごそう。いつか来るその時、親の骨を拾おう。だって、先立つ不孝は…。



119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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