この冷ややかな感じは…?

仰天の現場

救急車は緊急事態の現場に駆け付ける緊急車両です。駆け付けてみると、実は緊急性ゼロだったなんてこともよくある事です。一般の方にとっては生涯に1度呼ぶか呼ばないかの救急車、緊急事態の判断が難しいのは仕方がありません。

ただ、少なくとも通報者、その周りの人たちにとっては、その時は救急車を呼ぶべきと思った緊急事態なのです。救急隊が駆けつける時、そこには心配そうに待っている人、慌てている人たちがいることが普通です。

しかし、この時はどうも違っていて…。

出場指令

夕方の帰宅ラッシュ時間、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急隊、消防隊出場、○町○丁目○駅構内、3・4番線ホームの階段下に怪我人、男性は階段を転落し受傷、意識なし、通報は駅員のEさん」

との指令に救急隊、意識なしとの重症が想定される内容に、同じ消防署の消防隊がペアで出場しました。出場先の○駅は歓楽街を抱える街の巨大ステーションです。○駅へ向けて救急車、消防車、2台の緊急車両が走行します。街は小雨が降っていました。

現場到着

○駅南口ロータリーに停車、南口入り口には駅員の案内がありました。

隊長「救急隊です、通報いただいたEさんでしょうか?」
駅員E「ええ、どうもお願いします」
隊長「意識はありませんか?」
駅員E「40代の男性なんですけど…呼びかけても反応はなくて…意識は…ちょっといいですか」
隊長「?」

何か手招きをする駅員さん、隊長の耳元で何やらヒソヒソと話しています。

隊長「ええ…ええ…なるほど…、3・4番線ホームの階段下に40代の男性が倒れているって、他の駅員さんが付き添っているから、オレはEさんから情報を取るから消防隊と先に行って観察、処置を頼む、消防隊長、お願いします」
隊員「了解です」
消防隊長「ええ、了解」

傷病者接触

改札を通過すると3・4番ホームに上がる階段の下でスーツ姿の男性が仰臥位になって倒れていました。駅構内ということもあり、たくさん人が取り囲んでいました。こんな状況でもだいたい1、2名が傷病者のそばに寄り添っているものですが、この現場では倒れている傷病者から2mくらい離れた場所でヤジ馬たちが取り囲んでいました。何だろう?この違和感は??

機関員「すみません、ちょっと空けてもらって良いですか~」
隊員「救急隊です、大丈夫ですか?どうされましたか?」
傷病者「…」
隊員「分かりますか?お返事できますか?」
傷病者「…」
隊員「分かりますか?お返事できませんか?分かりますか?」
傷病者「ええ…分かります…」

傷病者の肩を叩き呼びかけると目を開け返事をするのでした。

隊員「救急隊です、お名前を教えてください」
傷病者「…」
隊員「分かりますね?どうして怪我をしたか覚えていますか?」
傷病者「…」

反応が悪い…?意識障害…?頭を打っているのか?何かおかしい…。同じ質問を繰り返すと傷病者は観念したように質問に答えることができるのでした。何か違和感がある…。傷病者は40代の男性でWさん、後頭部を床にぶつけていた様で後頭部に大きな血腫(たんこぶ)ができていました。

機関員「こちらの方が落ちたところを見た方いますか?何段くらいから落ちたか分かりませんか?」
目撃者男性「あの辺からですよ、あの辺から滑ってそのまま仰向けになって落ちました」
機関員「あそこから…けっこうあるね、高さにしたら2mってところだな」
隊員「頸部固定して、一応全身固定もした方が良いですね」
機関員「そうだな、そうしよう」

消防隊と協力してWさんを全身固定資器材に固定します。そんな処置をしている間も向けられている周りの視線が何か違う。何でしょうか、この冷ややかな感じは…?そうこうしている間に隊長が駅員と共に現場に来ました。あれ?警察官もいる。

隊員「隊長、後頭部に大きな血腫があります。今、全身固定をやっています」
隊長「了解、全身固定ができたら搬送しよう」
隊員「了解です」
隊長「それでは、病院はこれから選定しますから、搬送後は先ほどの通りに」
警察官「ええ、お願いします」

何やら隊長と警察官の方とで何か話が付いていました。

車内収容

隊長「病院連絡はオレがやるから傷病者の継続観察を2人で当たってくれ」
隊員・機関員「了解しました」

何でしょうか?この現場、隊員と機関員のよく分からないところで進んでいる。ただ、このWさん、周りの人から冷ややかな視線を浴びて、警察官にお世話にならなくてはならないことをしたと言うことでしょう。ということは…

機関員「Wさん、痛いのは頭だけ?ずいぶん高いところから落ちたみたいだけど、この雨で足を滑らせました?」
Wさん「…」

明らかに意識は清明のWさんは何も話したがりません。これは意識障害ではない…。救急車の外で搬送連絡をしている隊長、傷病者に聞かれたくない連絡内容が付加されていると言うことです。病院はすぐに決まりました。

病院到着

Wさんを救急処置室に移しストレッチャーや資器材の整備を行っているとパトカーが来ました。

警察官「どうも、○駅の事案ですよね?」
隊員「そうです、お疲れ様です」
警察官「患者さんはどこですか?」
隊員「今は処置室に入っています、まだ診察中ですよ、隊長が中にいますから」
警察官「どうも」
機関員「あの人は何をやらかしたんだ?」
隊員「痴漢でしょ、チカン」

「頭部打撲 軽症」

帰署途上

隊長「電車の中で女性に腕を捕まれて痴漢ですって叫ばれたんだってさ、周りにいた男性たちに囲まれて、次の駅で降りようってことになって、降りた瞬間、全速力で逃げたんだって」
機関員「なるほどね~」
隊長「それであの雨だろ、階段で滑って落ちて、仰向けのままピクリとも動かないから救急要請だってさ」
隊員「全速力であの高さから落ちたなら、もう逃げられないですね」
機関員「あの周りにいた人たちは?」
隊長「電車から彼をホームに降ろした男性たち、追いかけたんだってさ」
隊員「なるほど、それで目撃者もいたし、みんな冷ややかな目で見ていたって訳ですね」
機関員「それにしても痴漢して、逃げて、落ちて、さらし者になって、これから警察署だろ、悪いことはするもんじゃないね」
隊員「痴漢とか性癖は病気ですからね、困ったものですね」
隊長「警察官の話だとあのWさん、会社員みたいだぞ」
機関員「あ~あ…職場にいられるかな…家族もショックを受けるだろうなぁ…、お前も気をつけろよ」
隊員「オレにはそんな癖はないです、心配いりません」
隊長「こっちにはそんな気がなくても、間違えられてもアウトだからな」
機関員「そうですね、疑われるようなこともないように本当気をつけないと」

駅の階段から2mも落ちてピクリとも動かない人、普通なら慌てて救急要請になることでしょう。しかし、周りの人たちは冷ややかに彼を取り囲み、駅員を呼びに行く、警察?いや…でもピクリとも動かない、まずは救急車じゃないのか…?なあ、あんた?本当は聞こえているんじゃないのか?

目を瞑ったままピクリとも動かない、だから意識なしか…。

否。もう逃げられない。どうしよう。目を開ける訳にはいかない。どうしよう。聞こえていないふりしかできない。どうしよう。ぴくりとも動く訳にはいかない。どうしようどうしようどうしよう…。そんなところか…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
この記事に対するご意見・ご感想をお待ちしています。SNSでのコメントを頂けると嬉しいです。

@paramedic119 フォローお願いします。