仰天の現場
高齢化社会が進む中、救急隊が扱う事案もかなりの頻度でお年寄りであることが多いです。時に高齢者しか扱わない日がある時まであるくらいです。そんな救急隊にとっては日常である高齢者の活動、この時は理解を超えていて…
出場指令
「救急出場、○町路上、高齢男性は意識あるも倒れているもの、通報は通行人女性」
との指令に出場しました。まだ暖かい日差しが降り注ぐ時間帯でした。
現場到着
倒れているお年寄りの周りには数十名の人ごみができており、数名が現場に向かう私たちに手を振っていました。
傷病者接触
隊長「救急隊です、案内ありがとうございました、そちらの方ですね?」
通行人「そうです、ここで倒れていたから私が通報しました」
通報してくれたのは通行人の女性、周りにいる人たちもたまたまここに通りかかっただけで、知り合いはいませんでした。傷病者は80歳くらいの高齢の男性で額に出血がありましたが、かすり傷でした。
隊長「こんにちは、救急隊です、分かりますか?」
傷病者「はあ、救急車…」
隊長「そうです、救急隊です、どうされましたか?」
傷病者「どうされた?」
隊長「額にお怪我をしていますよ、その怪我はどうしたのですか?」
傷病者「ええ、電話をかけたんですよ」
話がかみ合わないのでした。
隊長「車内収容しようか…」
隊員「準備できています」
車内収容
隊長「どうしたのですか?何でここに倒れていたのでしょう?」
傷病者「行こうと思ったんだ」
隊長「どこに?」
傷病者「どこが?」
隊長「…」
傷病者は認知症があるのでしょう。ずっと会話が成立しないのです。明らかな外傷は額の擦過傷だけでした。
隊長「警察官を要請しよう、このままじゃ埒が明かないよ」
機関員「了解、身元不明で要請します」
機関員が本部に連絡を入れて警察官を現場に要請しました。
隊長「あなたはどこの方ですか?お名前を言えますか?」
傷病者「今日は天気が良かったものでね…」
隊長「そうじゃなくて名前と生年月日を教えて下さい」
傷病者「帰りたいんだけどね」
やっぱり会話が成立しない…それでも根気良く会話を続けていくと、傷病者はいくつかの住所を言うのでした。
隊長「K市▲町、〇市G町、それから■町、ちょっと調べてみてくれる?」
隊員「了解、調べてみます」
病院を選定するにもどこの誰だか分からない、年齢も何も分からない人を診てくれる病院なんて、そう簡単には決まりません。隊長は根気良く話をして、隊員、機関員はこの傷病者が言うホントかウソか分からない情報の裏を取っていました。
機関員「あった!あったよ、K市▲町の住所」
隊員「こっちもあった!G町の住所」
傷病者の言う3つの住所はどれも実在するのでした。
隊長「この住所に住んでいたの?今も住んでいるの?」
傷病者「そうだなぁ、きっとそうだな、明日もきっとだな」
そうこうしているうちに警察官が到着しました。
警察官到着
隊長「お疲れ様です、こちらの方なんですよ、よろしくお願いします」
警察官「お疲れ様です、こんにちは、ご主人さん、どうしたのですか?」
傷病者「いえね、行きたいんだよ」
警察官「どちらに?」
傷病者「お腹は減ってはいないんだけどなぁ」
警察官「…なるほど」
これまでの経過を隊長が説明しました。
隊長「…という状況でして、身元も分からなくて困っていたところなのですよ」
警察官「…了解です、ご主人、ちょっとごめんね、ちょっと身の回りのものを調べさせてもらうからね」
傷病者「いいよ、明日なら大丈夫だ」
警察官は傷病者の持ち物を調べ始めました。
警察官「あれ?ここに名前が書いているじゃない?あなたはJさん?Jさんて言うの?」
傷病者「何だろうね?名前?」
傷病者の肌着に名前が書いてあるのでした。小さな子どもでもなければ、なかなか自分の服に名前なんて書かないものです。それでも認知症がある、特に徘徊してしまうお年寄りの場合、服や持ち物に名前や連絡先が書いていることがあります。
隊長「さっきの住所、Jさんて家かどうか調べられないかな?」
機関員「K市の住宅地図はありますけど、他はさすがにないです、遠すぎますよ」
警察官「こっちで調べますよ」
先ほど傷病者が言った住所にJと言う姓の家がないか、警察官にも協力してもらい調べてみることにしました。
隊長「どれかが自宅なら良いのですけど」
警察官「そうですね」
隊長「額に怪我をしているし、このまま保護って訳にはいきませんよね?」
警察官「そうですね、まずは治療を受けてもらわないと」
隊長「事情を説明して病院を探そうか、診察後なら大丈夫ですよね?」
警察官「ええ、この方の家を探してあげないといけないですからね、治療後なら保護できます」
手当てを済ませた後には警察官が保護し、自宅を探してくれることになりました。これなら身元不明者でも医療機関が選定できます。すぐに直近の病院が診察してくれることとなりました。
病院到着
「頭部打撲 軽症」
もちろん入院を要するような怪我ではありませんでした。医師の診察も終わり、入院の必要なし、帰宅可能となっても、この人がどこの方なのか、どこに帰るべきなのかが分かりません。そんなところに警察官がやってきました。
警察官「身元が分かりましたよ、やっぱりJさんでG町の方でした、捜索願が出ていました」
看護師「あら良かった!あなたやっぱりJさんと言うのね?良かったですね」
警察官「Jさん、治療も終わったし、警察署に行きましょう、ご家族が迎えに来てくれるみたいだから」
Jさん「帰るのか?」
隊長「ええ、そうですよ、ご自宅に帰るんですよ」
Jさん「それはそれは良かったことだ」
隊長「G町ってずいぶん遠いな、Jさんはどうやってここまで来たのでしょうね?」
警察官「さあ?お金も持っていないみたいだし…、しかも捜索願が出ているのって7ヶ月前なんですよ、今までどうしていたのか?」
隊長「え…7ヶ月前!?…」
看護師「7カ月…信じられない…今までどうやって?ねえ?Jさん、今までどこで暮らしていたの?」
Jさん「今日は天気が良くてね~」
帰署途上
隊長「この7ヶ月もの間どうしていたんだろう?」
隊員「身なりだって別に汚れているって訳じゃなかったし、7ヶ月間も家に帰らず彷徨っていたって訳はないですよね?」
機関員「それは絶対にないよ、服だって洗濯してあるみたいだったし、靴だって綺麗だった。どこかで誰かが世話したのかな?」
警察官に申し送った救急隊にはJさんのこれまでを知る術はありません。7ヶ月、認知症のおじいちゃんはいったいどうしてきたのでしょうか?救急隊が扱う現場には、時にこのように謎が謎のまま終わる現場があります。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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