最後のいってらっしゃい

仰天の現場

今年は例年よりも早くインフルエンザが猛威を振っている。高熱で動けなくなってしまった、この季節にはよくある要請です。現場にはいつだって例外があるもので…

出場指令

この日も一晩中稼働し朝になりました…。もうお願いだからこれで終わって欲しい。そんな救急隊の切なる願いを打ち砕く出場指令が消防署に鳴り響きました。

「救急隊出場、⚪︎町⚪︎丁目…⚪︎マンション⚪︎号室J方、女性は発熱、動けないもの、通報は家族男性から」

朝食を掻き込んで救急車は消防署を飛び出しました。

出場途上、119コールバック

消防署を飛び出した救急車の後部座席から隊員が119番通報のあった電話に連絡をとりました。応答した通報者は傷病者の夫でした。

隊員「Jさんのお宅ですね、救急隊です」
夫「お願いします、妻なのですけど、熱が酷くて動けないものですから…」
隊員「奥さんはお話ができる状態でしょうか?救急隊の到着まで少しかかりますので状況を教えてください」
夫「はい、先週から発熱があって自宅で療養を続けていたのですけど…」

電話に応答したのは夫でした。傷病者は30代の女性で1週間ほど前からの発熱で自宅で療養していた。意識はしっかりとしているが、高熱で歩くことができずトイレにも行けなくなってしまったため要請にした。特に持病もない元気な人です。

隊員「分かりました、間も無く到着しますのでお出かけの支度と案内をお願いします」
夫「分かりました、よろしくお願いします」

聴取できた内容を隊長と機関員に報告しました。

隊長「既往症のない30代の女性が…発熱で歩くこともできないって?」
隊員「はい、トイレにも行けなくなってしまったから要請したとのことでした」
機関員「トイレにも行けないか…」

「トイレにも行けない状態になってしまったので119番通報した」はよく分かるのですが、実際にはかなりのケースで手を貸さなくても歩けることが多いです。特に30代の女性ともあれば、「一人で歩けない」は実際は具合が悪いので「歩きたくない」ことが想像できます。ところが…

現場到着

現場は新しいマンションでした。エントランス前に救急車を停車し、資器材を携行して傷病者の部屋に向かいました。インターホンを鳴らしドアを開けると、案内に出たのは小学校高学年くらいの女の子でした。

隊長「救急隊です、Jさんのお宅ですね?お待たせしました」
娘「こっちです、お父さ〜ん、救急車の人たちが来てくれたよ〜」
夫「よろしくお願いします、こちらです」
Jさん「すみません、よろしくお願いします」
隊長「おはようございます、Jさん、どうされたのかお話を聞かせてください」
隊員「私は血圧など測らせてもらいます、腕に触ります」
Jさん「はい、よろしくお願いします」

Jさんは駆けつけた救急隊に挨拶ができる。もうろうとしている様子はありましたが意識はしっかりとしていました。強い倦怠感の訴え、腕を触ると明らかな熱感がありました。隊長からの質問にしっかりと応えることができる状態でした。

隊長「なるほど、それでは1週間ほど前からお仕事をお休みして、今まで自宅で療養しているのですね」
夫「はい、先週に◾️クリニックにかかって、薬も飲んでいるのですけど良くならなくて…」
隊長「なるほど、インフルエンザと言われて、お薬もちゃんと飲んでいるのですね?」
Jさん「はい、今日はもう、本当に立てなくなってしまって…」
夫「トイレに行けずに汚れてしまったので…それで要請することにしました、私たちはすっかり良くなったと言うのに妻だけが良くならなくて…」

1週間前に小学生の娘が発熱、インフルエンザと診断された。その翌日からJさん、夫、小学生の弟と4人家族全員が発熱、近所のクリニックを受診し全員がインフルエンザと診断されました。薬をもらい療養を続けていた。Jさん以外は2日後には解熱し既に日常生活に戻っている。

ところがJさんだけはまったく良くならなかった。今朝になると歩くこともできなくなり、衣服を汚してしまったため夫が要請した。夫の介助で着替えは済ませていました。30代の女性がトイレに行けなかった?本当に一人では歩けないと言うこと…。

隊長「◾️クリニックには連絡しましたか?」
夫「実は昨日の夕方に行こうと思って、連絡したのですけど診察の時間に間に合わなくて…おまけに今日は◾️クリニックは休診日なんです」
隊長「そうでしたか…」
夫「ただ◾️クリニックからは▲大学病院に情報提供しておくので、救急外来を受診するように言われました」
隊長「その時には行かなかった?」
夫「いや…はい…妻もまだ大丈夫だと言うので朝に行こうって…」
Jさん「昨夜は歩けないことはなかったから…もう遅い時間だったし、朝にかかれば良いって思いました」
夫「だから今日は休みを取って、僕が連れて行こうと思ったのですけど…もう歩けなかったので…」
隊長「なるほど、だから救急要請に至ったのですね」
夫「はい、▲大学病院にお願いします」

Jさんの意識はしっかりしていますが、頻脈、39度代の発熱、血圧は収縮機で80mmHgほど、ただ元々低血圧とのことで普段から100mmHgもない方でした。

隊長「う〜ん…バイタルサインが良くないな…」
隊員「元々血圧が低い方ですけど、この頻脈がどうも気になります、インフルエンザだったとしても30代の女性が1週間も療養して全く良くならない、歩けないなんて…おかしいな…」

▲大学病院は3次医療機関の機能を有するこの地域の基幹病院です。Jさんも受診歴があり、クリニックからの情報提供がされている。連絡を取るとすぐに受入可能の回答が得られました。Jさんを支え担架に収容し救急車へと搬出する準備を進めました。

娘「お母さん…」
息子「お母さん、大丈夫?」
Jさん「何も心配しなくて大丈夫よ、お父さんと病院に行ってくるからね、気をつけていってらっしゃい」
夫「鍵を忘れないようにな」
息子「うん…」
娘「行ってきます」
Jさん「うん、いってらっしゃい」

小学校の出かける時間、ランドセルを背負った二人は心配そうな表情で出かけて行きました。何も心配ないと子どもたちを送り出したJさんですが、この脱力の様子…本当にトイレにも行けないほどに衰弱している。

医療機関到着

救急隊のストレッチャーから救急処置室のベッドへとJさんを移しました。

医師「ショックバイタル?本当に歩けない?」
隊長「ええ…救急隊は担架で搬出しました、トイレにも行けないで汚れてしまったと言うのが要請のきっかけです、▲大学病院だからお連れしましたけど、先生が受けてくれなかったら3次選定も考えていました」
医師「現場は⚪︎町でしょ?どちらにしてもうちに来ますよね?」
隊長「ええ、こちらが一番近いです」
医師「◾️クリニックからも情報提供が届いているし、うちで対応します」

「敗血症疑い 重症」

引揚途上

機関員「彼女は大丈夫かな?」
隊員「バイタルサインも悪かったし、先生の見立ても敗血症の疑い、重症度は高いですね」
隊長「簡易検査ではインフルエンザもコロナも陰性だって、心配だな…」
隊員「インフルエンザで家族は全滅したがみんなすぐに回復した、Jさんは他の何かにも感染していたのですかね?」
隊長「ああ、あり得る話だね」

Jさんは処置室でも医師からの問診にもしっかりと応答していました。この大病院で入院し、しっかりとした治療を受ければ良くなるに違いない。

数日後の▲大学病院

自称自身では歩けない傷病者を引き継いだのはJさんを受けてくれた医師でした。

医師「ふぅ…この人は何で救急車なの?」
隊長「歩けないから仕方がなく119番したとのことでした」
医師「歩けなくなんてないよね?」
隊長「ええ…救急隊が駆けつけた時には家の前で手を振っていましたから…」
医師「やれやれ…まったく…はぁ…」
隊長「歩けないと言えば…先日、私たちが搬送したJさんのその後はどうでしょうか?」
医師「あぁ…Jさんですか…」
隊長「若いのに本当に歩けなかったので心配していたのです」
医師「亡くなりました…あの後、急変して…手遅れだった」
隊長「え”…」

消防署の事務室

機関員「ショックだな…」
隊員「ええ、感染性ショックですね」
機関員「違うよ、Jさんが亡くなってショックだってこと」
隊員「ああ…そうですね、もちろんそうですけど、感染が原因ですよね…」
隊長「溶連菌感染による敗血症だったって…ICUに入院したけどあの日の午後に急変したってさ…」
隊長「もっと早く病院に行っていればな…」
隊員「はい、早く治療を受けていれば亡くなることなんてなかったはずです」
隊長「あの日クリニックの診察に間に合えば…あの夜に大学病院に行っていれば…結果は違ったかもな…」
機関員「小学生の子どもたち…あの旦那さんもショックだよな…」
隊長「子どもたちが出かける時にも自分のことよりも子どもたちを気遣っていた、母親ってやっぱりすごいよな…」
機関員「心に突き刺さるものがあるな、多分…あの時のいってらっしゃいが母子の最後の会話だ…」
隊長「ああ…そうか…あれが最後の会話、いってらっしゃいか…」



タクシーが捕まらなかったからと救急要請する人、怠いから歩けないと119番する人、何かあったらいけないから一応呼びました、そんな風に救急車を使う人が大勢いる。その一方で、本当に限界まで、最後の最後までSOSが出せずに頑張ってしまう人もいる。

いつだったか、ありがとうが最後の言葉だった夫婦がいた。どうにか年が越せそうだなが最後の会話だった夫婦にも出会った。印象的な現場だったけれども、どちらも老夫婦だった。今回は若いお母さんなのが余計に心に突き刺さります…。

不安そうな子どもたちに何も心配いらない…いってらっしゃいが最後の会話か…切ないな…。もっと早く病院にかかれば、もっと早く呼んでくれれば…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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