ナイフを持って立ってた

仰天の現場

私たち消防官は地方公務員の中でも公安職、町の平和と安全を守る仕事です。それには当然、危険が伴います。プロである以上、あってはならない事なのですが、怪我をしてしまったり、最悪は殉職もある仕事です。

火災現場で活躍するポンプ隊や救助隊は身体を張った危険な仕事と充分認知されています。一方、あまり認知されていないのが、救急隊も充分に危険が伴う仕事であると言うこと。

過去、大怪我をした事例や殉職した事案などもあるのです。今日は身の危険を感じた救急現場のお話です。


出場指令

日付が変わろうとしていた深夜、消防署に出場指令が流れました。あぁぁ…今日も今日のうちには横になれなかったか。

「消防隊、救急隊出場、○町…Yさん方、詳細は不明なるも女性は全身の切創、出血があるとのこと、通報は夫から」

との指令に消防隊と救急隊がペアで出場しました。

隊長「詳細不明?全身の切創?」
隊員「何ですかね?転倒しでガラスでも破ったかな?」
隊長「…分からないな?」

現場は消防署からすぐの地域、通報電話番号に連絡を入れる間もなくすぐに到着することができました。


現場到着

指令先のYさん方は一戸建てでした。救急隊長を先頭に救急隊員、さらに消防隊長、消防隊員と続きます。

隊長「こんばんは、Yさん、失礼します」

救急隊長がドアを開けた。すぐに救急隊長が手を伸ばし入ってくるなと合図しています。ん?何だ?

隊長「ちょっと、奥さん、それを奥の部屋にでも置いてきてもらえますか?それをそんなところに置いておく訳にはいかないよ、ね?」

開いたドア、いっこうに中に入っていかない救急隊長、隙間から中を覗き込むと下着姿でずぶ濡れになっている女性が立っていました。全身には無数の切り傷、そして足元には血にまみれた包丁が転がっていました。

あわわわわわぁぁ…、すぐ後ろにいる消防隊長に小声で伝えます。

隊員「消防隊長、傷病者は血まみれで、足元に包丁があります」
消防隊長「ええぇ!」
隊員「とりあえずこの資器材、全部引き揚げて!」
隊員は持っている資器材を全部、後ろにいる消防隊員に渡しました。
隊員「了解」

何かあったら全速でこの場を離れるためには資器材はになります。もしそんな時には資器材なんて放り投げて現場を離れれば良いのですが、そうなる前に資器材を車両に戻しておくことにしました。

隊長「それは台所にあるものでしょ?台所に戻してまたこちらに来てもらえますか?」
傷病者「はい…」

傷病者はゆっくりとした動きで包丁を拾い、立ちすくみました。ずぶ濡れで下着姿、全身が切り刻まれた女性が包丁を持って立っているのです…、興奮している訳でも暴れている訳でもなかったのですが…怖いに決まっている。

なかなか動こうとしない傷病者、とても近づけません。すると奥の部屋から男性が出てきました。

夫「お願いします」
隊長「あなたは通報してくれたご主人ですか?」
夫「そうです」
隊長「旦那さん、ひとまずね、奥さんの持っているそれをどこかに持っていってもらえますか、それを持ったままじゃ危ないでしょ」
夫「え?あ、あぁ…、そうですね」

夫は傷病者から包丁を受け取り奥の部屋に持って行きました。ふぅぅ…これでひとまず活動ができる。でも何があるか分かりません、すぐにでもこの場から飛び出す準備をしながら活動しないと…。


傷病者接触

これでやっと活動が始まります。

隊長「どうされましたか?」
傷病者「…」
隊長「あなたがYさんですね?」
傷病者「はい…」

包丁を置いてきた夫が戻ってきました。

隊長「旦那さん、どうされたんですか?」
夫「ええ…何か台所で物音が聞こえるから見に来たら妻がナイフを持って立ってたので…身体も切ってしまったようだったので119番通報しました」
隊長「そうですか…Yさん、お身体の手当てをさせてくださいね」
傷病者「はい…」

傷病者は30代の女性でYさん、数年前からうつ病を患い精神科に通院し治療を受けている方でした。Yさんはこの深夜、眠れず、不安だからと台所の包丁で自分の手足を切り刻んだのでした。

血まみれになってしまったからと自らシャワーを浴びて、その間に夫が119番したのでした。下着姿でずぶ濡れだったのはシャワーを浴びた直後であったからです。

傷病者「そうですか…それではうつ病で○病院にかかられていて…他にはご病気はありませんか?」
夫「はい」
隊長「Yさん、今日は何でこんな風に身体を切ってしまったの?」
Yさん「ええ…」
隊長「ずいぶんとたくさん切ってしまいましたね?どうしてこんな事したの?」
Yさん「眠れなくて…こうして身体を切っているととても安心して…それで…」

もうろうとした口調で説明するYさん。隊長が状況を聴取している間、救急隊員と機関員が全身の切創を確認し処置していました。

隊員「ちょっとガーゼを当てますよ、左大腿部、深さは約1センチ、長さは15センチ」
機関員「了解」
隊員「右の前腕は…、左の上腕にも、それから…」

Yさんの四肢には深さにして1センチにも及ぶ深い切創が数十センチに渡っていくつも刻まれていました。どのキズも縫合しないといけないものでしょう。

ただ動脈性の出血はなく、出血量はたいした量ではありませんでした。出血量は生命に関わるようなものではない。隊員がガーゼで処置し、機関員が記録していました。創はそれほど問題じゃないな…、これはきっとまだあるぞ…。

隊長「そう…Yさん、でも自分の身体を傷つけて、痛いでしょ?これじゃ病院で手当てしてもらわないといけないね」
Yさん「ええ…」
隊員「ちょっとここを離れます、包丁の形状と…他にも見てきます」
機関員「ああ、そうだな、了解」

手当てを機関員と消防隊員にまかせて救急隊員は奥の部屋を見に行くことにしました。

隊長「ご主人、奥のお部屋をちょっと見せてくださいね」
夫「ええ、どうぞ」

奥の台所、流し台には血に染まった包丁が転がっている。テーブルの上には…あっ!、やっぱり!

隊員「Yさん、お薬はここにあるのを全部お飲みになったのですか?お薬をたくさん飲んでいますよね?」
Yさん「え、ええ…」

もうろうとした口調で応えるYさん、台所のテーブルの上には薬のケースが散らばっていました。

隊員「隊長、かなりのお薬を飲んでいるかもしれませんよ、もしテーブルにあるのを全部飲んだのだとすると100じゃきかないですよ」
隊長「Yさん、台所にある薬は今、全部飲んでしまったの?」
Yさん「え、ええ…」
隊長「間違いない?今、全部飲んだの?」
Yさん「はい…、今、全部飲みました…」
隊長「そう、眠れなかったから?」
Yさん「はい、眠れなかったので飲みました、それでも眠れなかったので…」
隊長「そうですか、分かりました」
隊員「消防隊長、薬のケースを全部集めてもらえますか?」
消防隊長「了解」
隊長「問題はキズより薬だな、飲んだものを全部確認して助言を仰ごう、病院は医師の助言で決めよう」
隊員「了解」


車内収容

集められた薬のケースを数え医師の助言を仰ぐことにしました。助言要請とは救急救命士制度の根幹となるメディカルコントロールの柱のひとつです。

様々なことが巻き起こる救急現場において、想定されない事態や医学的な助言を電話や無線を活用して医師に仰ぐことを言います。

Yさんが飲んでいたお薬はかかりつけの精神科から処方されているものを数十錠、さらに買い置きしてあった家庭用の市販薬など合計百数十錠に及びました。

隊長「…という状況です。飲んでいるお薬は○1mgが20、○0.5mgが18…」
医師「…分かりました、精神科からの薬は問題ではないけどね…、市販薬の方が危ないですね、選定は3次医療機関にしてください」
隊員「了解しました、先生、ありがとうございました」

私たちは医師の助言の下、3次医療機関を選定、救命救急センターへとYさんを搬送することにしました。


医療機関到着

「薬物多量服用、全身切創 重症」


帰署途上

隊長「ドアを開けた時、血の気が引いちゃったよ…」
隊員「本当、血まみれだし、あの包丁…とても入ってなんていけませんよね」
関員「情報がないって怖いよな、俺たち丸腰だもんな」
隊長「しかし、あの奥さんはしっかりと治療しないとダメだな、あれだけ深く長く、自分の身体をなかなか刻めないもんだよな」
隊員「よくあるリストカットなんてあのキズに比べたらかすり傷ですね」
機関員「それにしても現場に急行が仕事だけど、急いじゃダメだな」
隊長「本当だな、むしろ一歩引いてゆっくり行こうって思うくらいでないと何があるか分からないよな」
隊員「今回は市販薬が危ないからって3次選定になりましたけど、逆に言えば市販薬を飲んでいなかったら3次の必要はなかったという事ですよね?」
機関員「2次でなんて探していたら、きっと今もまだ選定していたかもしれないな」
隊長「確かに言えてるね、この深夜で薬物の多量服用に全身の切創でしょ、しかも自分で傷つけたって…受け入れ先なんて皆無に等しいよな」

消防隊、救助隊に比べると身体を張ったイメージはいまいち劣る救急隊ですが、実はこんな現場が時々あるのです。さらに怖いのが目には見えないもの、感染症などのリスクにもさらされます。

危険な場所に出場し、怪我なく家に帰り、次の出場にまた備える、それが私たちの仕事です。それを続けていくためにも現場には安全を確認し、一歩引いた目線で向かう、それくらいの余裕を持っていないといけません。

凄惨な現場であればこそそれが難しいのです。人間テンパると視野が狭くなるもの、みんながパニックに陥る混乱した現場でこそ深呼吸のひとつでもして活動する、そんなプロの仕事をいつもしたいものです。

しかし、なかなかね…、平静を装っていますが、心の中は「あわわわわ…どうしよう」がこだましていたりします。

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