救命士のこぼれ話
救急隊は緊急事態に要請され、傷病者の下に駆けつける事を使命にしています。現場には日常では他人には見せないであろう事、まさにプライバシーに関わることがあります。
今や誰もが守られるべきものとして認識しているプライバシーと言う言葉、ところでプライバシーとは何でしょうか?
調べてみると「1.私事。私生活。また、秘密。2.私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利。」(大辞林 第二版 (三省堂)参照)とあります。
さらにプライバシーについて調べてみると、様々な学術や法律家の論文などなど境界線は白黒つけ難いグレーな部分もたいへん多いようです。また、救急隊員に限らず消防官には現場で見たこと聞いたことを他言しない守秘義務があり、職務上知りえた秘密を守る義務があります。
プライバシーは様々な側面があり、それは人それぞれの部分も多くあります。少なくとも私はプライバシーとは「他人には知られたくないこと、秘密にしておきたいこと」と認識して活動に当たっています。
今回のお話はプライバシーに関わる問題です。論外である話からプライバシーに関して人それぞれの考え方の違いから生じる問題など、答えのない問題にいつも私たちは頭を悩ませています。
いつかの救急現場
常習者とは言いませんが、慢性の病気があり救急車を利用される方の下に駆けつけました。こちらのお宅には私たちも数回は駆けつけたことがありました。かかりつけの医療機関に連絡が取れ救急隊は出発する準備に当たります。要請者のお宅の前でUターンするために隊員は救急車を降りて誘導に当たりました。
隊員「オーライ!オーライ!ストーップ!」
さあ、医療機関に向かって出発です。…と思ったら近所の人が声をかけてきました。
近所の人「病院決まったの?」
隊員「ええ、これから出発します」
近所の人「そう、どこに行くの?」
隊員「いや…かかりつけの医療機関に連絡が取れましたので…」
近所の人「ふ~ん…よく救急車が来るんだけど何の病気なの?」
隊員(そんな事教えられる訳ない…)「申し訳ありません、ご心配なのは分かるのですが、プライバシーの問題もあるのでご本人の了解なしには教える訳にはいかないのですよ」
近所の人「はぁ、そうなの」
ご近所の人からしてみれば「あそこのお宅はよく救急車が来るなぁ、何の病気なのだろう」そんな興味が沸いてくるのは分からないでもありません。
ただ、もちろんそんな事を教える訳にはいきません。どんな病気を抱えどこの医療機関にかかっているか、誰もが人に知られたくないと思っていることです、これこそまさにプライバシーでしょう。
こんな現場も
○マンション301号室K方からの要請、要請先のマンションの入り口に停車した私たち、メインストレッチャーに救急資器材を載せて301号室を目指します。
すると制服を着た男性が駆けつけてきました。彼はこのマンションの警備員のようです。
警備員「どうもお疲れ様です、どちらのお宅ですか?」
隊長「いや…あの…3階のお宅です」
警備員「何号室ですか?」
隊長「いや…その…プライバシーの問題もあるもので、どこのお宅までは答えられないのですよ」
警備員「教えられないってどういう事ですか!私はここの警備員ですよ、ここの方に何かあったら対応するのが仕事なんですよ!」
隊長「いや…すみません、あなたのお立場も仰っていることも良く分かるのですが、中には救急車で搬送されること自体を知られたくないと感じられる方もいますから」
救急車のサイレンを聞いて制服を着て駆けつけた警備員、まず間違いなく悪意のある人物である事はないでしょう。彼も職務を果たそうと一生懸命やっているのに私たちのこの対応、神経質過ぎるでしょうか?
「救急車で搬送されること」これはプライバシーでしょうか、中にはそんなこと秘密にするほどのことじゃないと感じるかたもいるかと思います。…とは言え、救急車に乗ること、「救急車で搬送された事実」自体が誰にも知られたくない事である方もいるのです。
この現場は立派なお宅でした
傷病者は初老の男性、もともと心疾患をお持ちの方で深夜から急に胸が苦しくなってきたからとの救急要請でした。私たちに対する言葉使いや対応もたいへん紳士的でかなり社会的立場をお持ちの方なのだろうと想像ができました。
ただ、傷病者が社会的に立場があろうがなかろうが私たちにはそれは問題ではありません。既往の病気やかかりつけ医療機関は訪ねる必要があっても、傷病者が何をしている方なのか職業などを訪ねることはあまりありません。
隊長「それでは○病院に向かいます、かかりつけですし、循環器の先生も準備して待っていてくれるそうですよ」
傷病者「どうも、お願いします」
病院へと向かう救急車内、心配そうにしていた奥さんがこんな事を言い出しました。
奥さん「…あの、夫が救急車で搬送されたと言うことは知られる事はないでしょうか?」
隊長「と、おっしゃいますと?」
奥さん「あの…実は夫は議員でして…ご存知だとは思いますが今度選挙があるものですから」
隊長「サイレンを鳴らして駆けつけていますから、深夜とはいえ近所の方がご覧になっていることはあるかと思いますが…」
奥さん「いえ…それは仕方のないことだと思うのですが、どこかから問い合わせとかあった時にとか…」
隊長「それは大丈夫です、仮にどこかから問い合わせがあったとしても私たちがご主人をどちらの医療機関に搬送したかを答えること、そもそもご主人を救急隊が搬送したか否かの事実を答えることもありません」
奥さん「そうですか、それは良かった…」
選挙を控えた議員さんにとって、健康に関わることはたいへんデリケートな問題です。仮に問題なくその日のうちに帰ってこれたとしても救急車で搬送されたこと自体が知られたくない秘密でしょう。このように「救急車で搬送されたこと」自体を誰にも知られたくないと言う方もいるのです。
ある日の消防署
消防署に救急隊宛の来客がありました。この方の要件は数日前から知人と連絡が取れないので心配になり友人宅を訪ねたところ、やっぱり留守の状態である。
ひょっとして中で何かたいへんなことになっているのではないかと心配していたら、隣人から救急車で搬送されていったと言うことを聞かされた。
友人宅から一番近い消防署と言えばここなので、こちらの救急隊がどこかの医療機関に搬送したのだろうと思って訪ねてきた。
友人はこちらの救急隊で搬送されたのか?搬送したのならどこに搬送したか教えてほしいと言うものでした。
隊長「申し訳ありません、私たちがいつどこで誰を搬送したかと言うお話はプライバシーに関わる問題がありますのでお答えする訳にはいかないのです」
来客「冗談じゃない!そんなのプライバシーじゃないだろ!オレは心配していろいろ調べてここまで辿り着いたんだ!教えられないとはどういう事だ!」
激怒する来客、気持ちは非常に良く分かります。ただ、やはり教える訳にはいかないのです…。
このサイトでいつもお話させていただいている通り、救急隊を取り巻く環境は様々です。その要因は様々な現場、様々な人の下に駆けつけるからにあります。100人には100の個性があり、考え方、価値観があります。
プライバシーについての考え方、知られたくないと感じることも100の考え方があって当然です。「そんな事はプライバシーじゃない、誰が知られて困るっていうんだ」と言う人の主張も万人に当てはまる訳ではないことなのです。
少し神経質になり過ぎだろうかと感じることもありますが、このくらい慎重に配慮しながら活動するのが私たちの務めであるとも思います。皆さんはどう思われますか?
SNSでコメントを頂けると嬉しいです。