続・勃起してる…

ケーススタディ

この記事は勃起してる…の続編です。先にこちらをお読みください。


搬送連絡

機関員が全身固定資器材を持って現場へと走る中、隊員はメイントレッチャーなど搬送用の資器材を準備しつつ、病院への搬送連絡をしていました。連絡した内容はFさんの年齢、事故に至る簡単な概要、そして救急隊が何を疑っているのか、それを導き出したキーワード程度でした。受け入れ先病院はすぐに決まりました。

車内収容

隊長「いいか、ここは時間をかけても丁寧にだぞ、絶対に動揺を与えるなよ」
隊員「ええ、分かっています!」
隊長「Fさん、頭を抑えさせてもらいますよ、これからあなたの身体を固定しますから、私が触っているのは分かりますか?」
Fさん「ええ、分かります」

手足を触られても全く分からない分からないと訴えていたFさんですが、全身固定のために頭部を押さえている隊長の手の感触は分かると訴えるのでした。救急隊はかなりの確信を持って活動していました。Fさんに起こっている病態は「頸椎損傷」によるものだろうと。

頸椎損傷が起これば脳から全身へと命令を伝える頸髄が損傷されFさんのように麻痺や陰茎部の持続勃起などの兆候が見られることがあります。頸髄の損傷の程度により現れる症状の程度も様々です。ただ、Fさんは四肢が完全に麻痺していました、損傷の程度は重そうです。さらに…

隊長「Fさん、今、身体を固定していますからね、この処置が終わったらすぐに○病院に行きますから、もう少し頑張ってください」
Fさん「ええ、すみませんね」
隊長「息苦しかったりはしませんか?」
Fさん「いや、大丈夫だ」
隊長「そうですか、もう少しですからね」

息苦しいとは訴えないFさん、ただFさんの呼吸様式は不自然でした。呼吸に伴い上下しているのは胸ではなく腹部…

隊員(これは…腹式呼吸…)

呼吸運動は第3~5頸髄から出る横隔神経に支配される横隔膜と胸髄から出る肋間神経に支配されている肋間筋の協調運動によって構成されています。Fさんの場合、腹式呼吸をしているということは上位頸髄損傷により横隔膜のみで呼吸していると考えられます。

隊長「いいか、そ~っとだぞ、ここはとにかく丁寧に」
隊員「了解…」

もし仮に、かろうじて上位頸髄が損傷されずにギリギリ繋がっているような状態であったらどうでしょうか?もしこの固定処置の際に動揺を与えそのギリギリ繋がっていた頸髄にさらに損傷が加わったのならどうなるでしょうか?横隔膜まで動かなくなってしまったら…。

これから搬送し緊急走行する車内ではFさんの身体に動揺が加わることは避けられません。搬送を始める前に全身を一本丸太のようにしっかりと固定する事が必要です。ロードアンドゴーの現場ですがここは丁寧に、とにかく丁寧に活動しなくてはならない、この現場のまさに要でした。


搬送途上

医療機関へ伝えてあるのは、見て、聞いて、感じて、触ってと血圧計などの観察資器材を活用しないで得られた情報だけでした。これだけで得られた情報だけでも緊急度・重症度を判断するには十分であったため先医療機関もすぐに受け入れを決めてくれたのでした。

しかしだからと言って、傷病者の詳細な観察が不要である訳ではありません。詳細な観察情報は車内収容後、現場を離れ医療機関に向かいながら測定しセカンドコールする必要があります。

Fさんは意識は清明、呼吸は16~20回/分程と回数は正常値、ただ腹式呼吸、脈拍は40回/分代、血圧は収縮期血圧が80mmHg程度、四肢麻痺、陰茎部の持続勃起が明らかでした。これらの情報を医療機関に向かいながら医療機関に連絡します。


医療機関到着

処置室に入ると医師たちはFさんの状態を評価し、すぐにレントゲン撮影が行われました。その間に隊長が引き継ぎを行います。

医師「なるほど、首から下が完全に麻痺か…」
隊長「ええ、頸椎損傷で間違いないだろうと…陰茎部の持続勃起がありました」
医師「他に3次選定した理由は?」
隊長「高度の除脈と血圧の低下です、神経原性ショックと判断しました」
医師「なるほど…」
隊長「それから腹式呼吸も、損傷部位は恐らく上位頸髄だろうと…呼吸停止の可能性まである得る…緊急度も重症度も非常に高いと判断しました」
医師「ええ、それで間違いないでしょうね」

モニターにレントゲン撮影の結果が映し出されました。ざわつく操作室内、救急隊も引継ぎの過程でレントゲンやCTの結果などをよく見せてもらいますが、正直、技師さんに解説してもらわないと分からないことがほとんどです。ただ、Fさんのレントゲン写真には明らかに頸椎がずれてしまっている様子が映し出されていたのでした。

医師「これは…」
隊長「先生、これは骨折ですか?脱臼?完全にずれてしまっているみたいですけど」
医師「ええ、骨折はなさそうかな…脱臼だな」
隊長「損傷しているのは?」
医師「おそらく第3と第4頸椎辺り」
隊長「第3と第4…呼吸を司る神経は第3から下位と理解していたのですが…呼吸はできるものなのですか?」
医師「う~ん…完全に損傷している訳ではないのでしょう、だた、この脱臼の仕方…呼吸が止まっていてもおかしくはない…と思います」
隊長「そうですか…」

「頸髄損傷 重篤」


帰署途上

隊員「神経原性ショック、四肢完全麻痺、腹式呼吸、陰茎持続勃起…テキスト通りの病態だけど…よく呼吸を保っていましたね」
隊長「ああ、損傷していたのは上位頸椎でしかも第3か第4頸椎付近じゃないかって、呼吸が止まっていてもおかしくなかったってさ」
隊員「…と言うことはやっぱりあの全身固定処置は相当のリスクを秘めていたってことですね」
隊長「ああ…恐ろしいよな?俺たちが固定する最中に呼吸が止まっていたらって思うと…」
機関員「ところで頸損すると何で勃起するんだい?」
隊長「それも記憶が曖昧だったから先生に聞いてきたよ、基本的に身体ってのはリラックスする方に傾くようになっているんだって、つまりは副交感神経が優位にあるってことだ、それを交感神経って緊張の糸が引っ張っていてバランスを取っている」
機関員「なるほど、今回はその糸が切れてしまったから身体はどんどん副交感神経が優位になったって訳か」
隊長「副交感神経が優位になると除脈、血圧低下、唾液分泌とか、それから勃起もひとつの徴候だって、確か救急研修の時は定番の問題だったよな?」
隊員「定番問題でした確かに、ただ、今回はあれだけの薄着だったからたまたま分かっただけですけど」
隊長「確かにいくら大事な徴候とはいえ、股間を詳細に観察するって訳にはいかないものな」

今回、Fさんは意識も清明で接触時にパッと見て重症度を判断することはできませんでした。現場の空気を変えたのが陰茎部の持続勃起という分かりやすいキーワードでした。仮にこの現場が冬場であったのなら重症度を判断するまでもう少し時間を要していたと思います。

傷病者の状態を判断する上で詳細で漏れのない観察は非常に重要です。しかし、それは非常に難しいことで、陰茎部の観察を行うことは現実的にはかなり難しいです。

意識レベルが悪い女性を医療機関に搬送してから、看護師が胸部からオペ痕を見つけて指摘されるなんてこともあります。女性の胸部を脱がして観察すると言うことも、あるいは必要な時があるとは思いますが、現実的には相当に難しいです。

一方で今回のような外傷事案では必要情報が揃ったら詳細な観察は車内収容後に後回しにすることも必要です。これは緊急度・重症度を判断するに至る情報、キーワードが揃ったのなら活動を削って、短縮して、とにかく早く現場を離れ医療機関に向かうことが重要だからです。

緊張とリラックス、交感神経と副交感神経のように「確実で正確な判断」と「早期に搬送する」まさにこの相反する両方を両立させることが現場には必要なのです。それは非常に難しいことなのですが…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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