この国には希望がある

救命士のこぼれ話

どの仕事にもやりがいを感じる報われる瞬間があります。人命救助を生業にする私たち消防官にとって、それが達成された時、何にも代えがたいやりがいがあります。しかし、そうではない現場であっても輝きはあるもので…


出場指令

「救急出場、〇町〇丁目…T方、80代女性は全身の痛み、通報は往診中の医師から」

との指令に救急車は消防署を飛び出しました。
(119コールバック)

隊員「もしもし、そちらに向かっている救急隊です、状況を確認させていただくため連絡させてもらいました」
往診医「どうも、通報した医師です、よろしくお願いします」
隊員「先生、状況を教えてください」
往診医「ええ、患者さんは…」

傷病者は80代女性、以前に胃がんを患い治療歴がある。半年ほど前に再発し、すでに全身に転移、治療ができる状態ではない方である。自宅での療養を希望し往診、訪問看護でこれまで対応してきた。ここ数日、全身の痛みがひどく、これ以上は往診での対応はできないと判断した。ホスピスケアができる〇病院に連絡が取れている。

隊員「それでは先生、〇病院に搬送する手配は既についているのですね」
往診医「ええ、私から〇医師に連絡してあります、紹介状も用意できています」
隊員「分かりました、ご本人はご病気のことを知っているのでしょうか?」
往診医「告知済みです、自身の病状も、ホスピスがどのような病院なのかも良くご理解いただいています」
隊員「了解しました、間もなく到着できます、よろしくお願いします」

聴取できた内容を隊長、機関員に報告し共有します。

隊長「なるほど、末期がんでホスピスとなるとバイタルが悪いこともあるな…」
隊員「傷病者には告知済でホスピスに行くことも理解しているそうです」
隊長「了解」


現場到着

指令先のTさんのお宅の前に停車しました。とても立派な一戸建て、往診医の運転手が案内に出てきました。

隊長「お待たせしました、救急隊です」
往診医「どうも、よろしくお願いします」

傷病者は部屋のベッドに半坐位でおり、到着した救急隊ににこやかに会釈したのでした。これだけでも判断できることはたくさんあります。意識状態はしっかりしているだろう、呼吸もしっかりしている。

隊長「先生から申し送りをもらうから二人はバイタルの測定と搬送の準備を」
隊員・機関員「了解です」

整理整頓が行き届き清潔感がある部屋。Tさんが家族から大切にされていることがそれだけでよく分かりました。

隊員「こんにちは、Tさん、救急隊の者です、お身体の様子を確認させていただきます」
Tさん「ごめんなさいね、救急隊の方にお世話になるようなことではないのに…もっと困っている人のところに行かなければならないのに…」
隊員「そんなことはお気になさらずに…血圧を測らせてください」

Tさんは自宅で療養を続けていたが先週からはひとり歩くことも難しくなってしまい入院を勧められたが、自宅での療養を強く希望しました。昨日からは家族の介助でトイレに行く際にも全身の痛みを訴えるようになり、家族が往診医に連絡、今日の往診に至ったのでした。往診医からこれ以上の自宅療養は無理と説得され、これ以上は家族にも迷惑になるからと入院に同意したとのことでした。ただ、それでも…

Tさん「どうにか頑張れば息子の車で行くことができるのに、ごめんなさい」
息子さん「母さん、もういいよ、先生が救急車じゃないといけないって判断して下さったのだから」
Tさん「でも、救急車は命を助けるためにあるのに…」

Tさんのバイタルサインに異常はなく、搬送の準備を進めました。搬送に際し、身体を動かす際には苦痛の表情を浮かべましたが、「大丈夫、ありがとう、ごめんなさい」とても上品な口調でむしろ救急隊を気遣うのでした。


現場出発

隊長「Tさん、いかがでしょうか?お身体は痛みますか?」
Tさん「いいえ、こんな風に安静に動かなければ大丈夫です」
隊長「そうですか、それは良かった、ただ、病院に着いてからベッドに移っていただく際に痛い思いをさせてしまうかもしれません」
Tさん「大丈夫です、どうもありがとう…」

Tさんは自身が末期がんだと知っており、間もなく死が訪れることまで理解していました。それでも、このような口調に振る舞い。どのような人生を送ればこんな風に穏やかでいられるのでしょうか。


医療機関到着

案内に出た看護師からの依頼で用意されていた病室まで搬送し、ベッドにTさんを移しました。病室に医師が駆け付けました。

医師「救急隊さん、サインするよ、内容は往診の先生から聞いているし紹介状もあるから分かっている」
隊長「そうですか、では先生、よろしくお願いします」

「癌全身転移 重症」

隊長「それでは救急隊はこれで引き揚げます、お大事に」
息子「どうもお世話になりました、ありがとうございました」
Tさん「救急隊さん、ごめんなさいね、私は救急車で搬送されるべきではないわ、あなたたちはもっと本当に必要な人たちのところに行くべきでした」
隊長「いいえ、そんな…お気遣いなく」
Tさん「でもね、ありがとう、実は少しでも動くとものすごく身体が痛むのは本当なの、でもとっても優しく運んでくれたからすごく楽だった。それからずっと私を気遣ってくれているのがみなさんから凄く伝わってきました、隊長さんの普段の教育が良いのね、あなたたちは本当に素晴らしい仕事をしているわ」
隊長「…ありがとうございます」
Tさん「ねえ、あなた」
隊員「はい…」
Tさん「私はもう少しで最後が来ます、でもあなたのような若い方がこんな風に素晴らしい仕事をしていると思ったら、この国にはまだまだ希望があるって思えた、本当にありがとうね、これからも頑張ってね」
隊員「はい…頑張ります!ありがとうございました」


医療機関引き揚げ

隊長「良かったな、最高のお褒めの言葉だ、これ以上のやりがいってあるかい?」
隊員「ないですね、本当に感謝してくれているのが伝わってきました」
機関員「表彰とかそんなのより何よりのご褒美ですよ、むしろこっちがありがたい…」
隊長「Tさんの言うように最後が来ることが分かっている方の搬送だ、人命救助が使命の救急隊の利用としては好ましいことではないかもしれない、でも、これも救急隊の仕事だよな」
隊員「ええ、最高の仕事ですよ」

いつも愚痴が多い救急車内ですが、この時ばかりはこの職を選んで良かった、そんな風に思ったのでした。


数週間後の朝

相番の救急隊から申し送りを受けます。昨日の使用資器材、どんな活動があったか、どれだけの距離を走行したかなどなど、そんな申し送りの中で…

相番の隊長「…それから搬送した傷病者の家族の来署がありました、〇町のTさんという方で、今日は搬送した隊の者は休みだと伝えたらとても残念がっていましたよ、どうしても直接お礼が言いたかったと」
隊長「Tさん…いつの事案?」
相番の隊長「〇日です、ホスピスに搬送している事案」
隊長「ああ!あの事案」
相番の隊長「息子さんだそうで、活動記録を確認したら同乗していました。なんでも通夜が終わった帰り道に署の前を通りかかったからどうしても一言お礼をと思ったって、喪服でした」
隊長「ああ…そうですか、亡くなったんですか」
相番の隊長「ええ、でも傷病者は最後まで救急隊に本当に良くしてもらったって言っていたと、息子さんもそれはそれは感謝していると言っていました、私から駆け付けた隊にはよく伝えておきますと申し伝えておきました」
隊長「そうですか…どうもありがとうございました」
相番の隊長「良い仕事をしたじゃないか」
隊員「はい!ありがとうございます」

劇的な救命、もちろん最高にやりがいがあります。でも、こんな風に死が約束された現場でもキラリと光るものがあったりします。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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