溜息の救急現場
救急隊は急病人、怪我人の元に駆け付け医療機関に搬送することを使命にしています。ただ、全事案で搬送に至るとは限りません。通報した人の勘違いで急病や怪我の事実がなかった場合や傷病者自身が大したことではないからと搬送を辞退する場合などです。今回の場合は…
日付が変わろうとしている深夜の消防署に出場指令が鳴り響きました。
「救急出場、○町○丁目…、○ビルの前付近、詳細不明なるも男性の急病人、通報はSさん女性」
との指令に私たち救急隊は出場しました。
出場途上
救急車の後部座席より隊員が119番通報のあった携帯電話に連絡を入れます。
(119コールバック)
隊員「もしもし、119番通報したSさんですか?」
Sさん「そうです」
隊員「そちらに向かっている救急隊です、状況を教えてください?」
Sさん「いいから早く来て、早く~!」
隊員「到着までもう少しかかります、患者さんの様子を教えてください?」
Sさん「嫌だって言っているじゃない!渡さないわよ、何だって言うのよ!」
隊員「ちょっと、Sさん?どうされました?Sさん!」
Sさん「とにかく早く、早く来てください!…」
電話が切れた。まったく状況がつかめません。ただ、電話の向こうでは何やら口論をしているような様子がありました。嫌ぁ~な予感…。この経過を運転席と助手席の隊長、機関員に報告します。
隊長「なんだそれ?」
隊員「はぁ…、 一方的に切られてしまったので、状況は何も分かりませんでした、何か口論みたいな…」
機関員「要はロクな現場じゃなさそうってことでしょ?」
隊員「はい…トラブルの臭いしかしません…」
現場到着
機関員「えっと…○ビル…、ここです」
隊長「そうだな…、 それらしき人は…いないよな?」
機関員「ひとまず停車します」
隊員「もう一度、通報電話にかけてみます」
指令番地、目標建物、ここに間違いありません。深夜の街には人はおらず、ここに急病人と通報者がいるのなら分からないはずはありません。隊員がもう一度、通報電話に連絡を取るも応答はありませんでした。
〇ビルの前、深夜の街に立つ救急隊の3人をチカチカと救急車の赤色回転灯が照らします。さて、どうしようか、駆け付けたのに誰もいない…。ん?あれ?何か聞こえる、遠くから…
Sさん「こっちで~す、こっち~~!」
数百m先から女性が何やら大騒ぎして手を振っている。
隊員「あっ!隊長、多分あの人がSさんですよ」
隊長「何か…様子がおかしいな」
隊員「ですね…」
隊長「オレたち二人で行ってみよう、機関員は距離を置いて救急車でゆっくりとついてきて」
機関員「了解、本部に移動するって報告を入れておきます」
隊長「ああ、頼むよ」
指令番地から通りに沿って進むこと約200m、通報者のSさんがいました。
通報者接触
Sさん「だから嫌だって言っているでしょ、何なのよ!」
男性「うるせえ!それをよこせ、それはオレのだ!」
Sさん「冗談じゃないわ、ふざけないでよ!」
隊長「…」
通報者のSさんと思われる女性、傷病者と思われる男性も50歳くらい、夫婦なのか?二人は激しく口論していました。女性の持ち物を獲ろうとする男性、渡さないと逃げる女性、通りに沿ってどんどん進んでいきます。指令場所から離れてしまうはずです。おやおや…、女性は靴を履いていませんでした。
隊長「あの~、通報いただいたSさんですか?」
Sさん「そうです」
隊長「急病人はどなた?」
Sさん「この人です!早くどこかに連れて行ってください!」
男性「勝手に救急車なんて呼びやがって!早くそれをよこせ!」
Sさん「だから嫌だって言っているじゃない!」
隊長「…」
このふたり明らかにかなり酔っ払っています。女性が逃げては男性が追いかけ、どんどん進んでいくふたり、それを少し離れたところから追いかける救急隊長、その一歩後ろに続く隊員、さらに離れてついてくる救急車、何でしょうかこの現場…、訳が分かりません。おや?さらにもうひとり、さっきから私たちのそばにいるこの男性は?
隊員「あの…どちら様ですか?」
通行人「いや…あはは、ただの通行人です」
隊員「あの方たちのお知り合いではないですか?」
通行人「いや、全然関係ない、関係ないです、気にしないで!あはは」
隊員「はあ、そうですか…」
興味津々、彼も酔っぱらっているようです。大騒ぎしているふたり、やってきた救急車、面白いのでしょう。ずんずんと進む二人、それに続く救急隊長と隊員、距離を置いてそれを追う救急車、それに続く野次馬の男性…。何これ…。
隊長「ねえ、Sさん、具合が悪い方がいるから救急要請したんじゃないの?」
Sさん「この人です!この人がおかしいんです!どこかに連れていって!」
男性「おかしいだと!ふざけるな!いいからそれをよこせ!」
Sさん「だから嫌だって言っているじゃない!」
隊長「ねえ、あなた、具合いが悪いことはないですか?」
男性「具合いなんて悪くねえ!この女が勝手に言っているだけだ、こら!お前どこまで行くつもりだ!早くそれを渡せ!」
Sさん「ねえ、早くどこかに連れて行ってよ~~!」
隊長「Sさん、具合が悪くない方をどこにも連れていけないよ、この方が急病人ってことで呼んだのね?」
Sさん「そうです、もういいじゃない、この人頭がおかしいんです、どこかに連れてってよ!」
男性「おかしいのはお前だ!それを渡せ!」
Sさん「嫌よ、ふざけないでよ!」
活動終了
隊長「やめやめ…ここで止めよう」
隊員「了解です…」
ふたりについていくのを止めた隊長と隊員、さらにやっぱり私たちの横でふたりを見ている男性。
隊長「あの…あなたは?あのふたりのお知り合いですか?」
通行人「いや…あはは、関係ない、気にしないで、ただの通行人です、あはは」
隊長「はぁ、そうですか…」
大騒ぎを続けたままふたりはどこかに消えていきました。何で救急車を要請したのか?それすら良く分かりませんでした…。
「不搬送 立ち去り」
帰署途上
機関員「はぁ…バカバカしいのなんの…」
隊長「何が何だか分からないけど、Sさんは救急車が来れば、あの男をどこかに連れて行くと思ったんじゃないのかな?」
機関員「多分そうですね、警察沙汰は嫌だから119番ってところかな」
隊長「何が何だか…」
機関員「不適切な要請は間違いないでしょ」
隊長「ああ、それだけは間違いないよ」
隊員「あの野次馬の男性も酔っていたみたいでしたね…」
機関員「あの人、野次馬だったの?関係者じゃなくて?」
隊員「関係ないって、興味津々な様子でした」
隊長「裸足の女性が大騒ぎして救急車がやって来たんだ、酒の肴には良いんじゃないのか、面白いだろうさ」
機関員「やれやれ、煩わしいね…」
要請した女性は口論の相手をどこかに連れて行けと救急要請をしたようでした。急病人とされた男性はふざけるなと女性を追ってふたりはどんどん進んでいきます。元気であること、不適切な要請であることだけは確定、何が何だか…。深夜の救急車内はどんよりと暗く、夜の闇より深い溜息がこぼれたのでした…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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