医師か、患者か、救急隊か?

溜息の現場

あともう少しで交替だという朝8時、もう少し、あと少しでこの激務が終わる、ゴールテープが遠のいてしまう最も堪える時間に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁目…Y方、男性は発熱し動けないもの、通報は妻から」

との指令に私たち救急隊は消防署を飛び出しました。もう少し、あと少し…だったのに…願いは届かない。

出場途上

出場途上、救急隊員は通報電話番号に連絡し、状況を聴取しました。

(119コールバック)

隊員「Yさんのお宅ですね?救急隊です、通報頂いた方ですか?」
奥さん「はい、妻です」
隊員「患者さんの状況を教えてください?発熱で動けないとのことですが、意識はありますか?」
奥さん「意識は大丈夫です、ただフラフラして病院に行けないので要請させてもらいました」
隊員「ご主人に病気、かかりつけの病院はありますか?」
奥さん「Hクリニックにかかっています、ただHクリニックは混んでてとても無理なのでお願いしました」

混んでいる?何でそんなことが分かるんだ?電話でも入れたのかな?

隊員「クリニックでは何を診てもらっているのですか?」
奥さん「熱が出たりすると近所なので、いつもかかります」
隊員「そうですか、では特に持病をお持ちと言う事ではないのですね?」
奥さん「はい、夫は健康で風邪をひくこともめったにありません、娘が先日までインフルエンザだったので伝染ったんじゃないかと」
隊員「分かりました、もう少しで到着します」

聴取した内容を隊長、機関員に報告する。

隊長「なるほど、娘さんがインフルエンザで旦那さんが発熱してると」
機関員「傷病者もその可能性が高そうですね」

現場到着

指令先のYさんの家の前で女性が手を振っていました。

隊長「救急隊です、ご家族ですね?」
娘さん「そうです、娘です」
隊長「患者さんはどちらに?案内をお願いします」
娘さん「こっちです、今、支度をしています、この前まで私がインフルエンザで療養していたので多分、父もそうじゃないかと思います」

娘さんの案内で玄関ドアを開けると男性が靴を履こうとしていました。どうやらこの方が傷病者のようです…。身支度はすっかり整っている様子でした。「発熱で動けない」はずだったのに…。

傷病者接触

傷病者は60歳代の男性でYさん、通報者である奥さんが付き添っていました。

隊長「こんにちは、患者さんはあなたですか?」
Yさん「ええ、どうも」
隊長「歩いて大丈夫ですか?動くことができないとお聞きしているのですが」
Yさん「大丈夫、問題ないよ」

そういうと靴を履いたYさんはひょんと立ち上がりました。

隊長「そうですか…、ストレッチャーが準備してありますから、こちらに横になってください」
Yさん「ストレッチャー?横に?いや…そこまでしてもらわなくても大丈夫なんだけどな…」
隊長「まあ、そう仰らずに、救急車の中でお話を聞かせてください」
隊員「さあどうぞ、介助します、私につかまってください」
Yさん「いやいや、大丈夫だよ、悪いね」

隊員が介助しようとしましたが、Yさんはその必要はないとしっかりとした足取りで玄関前に用意したストレッチャーまでの数メートルを歩き、自身で横になりました。

車内収容

奥さんと共に車内収容しYさんのバイタルサインを測定、39度台の発熱がありましたが他に問題はありませんでした。

隊長「それでは先ほど電話でお聴きした通り、持病はありませんね?Hクリニックは風邪をひいた時にかかるだけですね?」
奥さん「そうです、病気らしい病気は何もないです」
隊長「発熱は昨晩から…と言うことは、今朝までは様子をみていたのですね?」
奥さん「ええ、今朝になったらHクリニックにかかればよいと思って」
隊長「そうですか…娘さんがインフルエンザだったとお聞きしたのですが…案内に出て頂いた方が娘さんですか?」
奥さん「そうです、娘はもう熱はないのですけど、先週にインフルエンザになってしまって…昨夜からは夫が発熱してしまって…」
隊長「今日は平日ですがHクリニックはやっていないのですか?」
奥さん「やっていますよ」

やっている?あと30分もすれば外来診察が始まる時間です。では、何で救急車なのでしょうか?

隊長「Hクリニックにかかろうと思って今朝まで様子をみていたのですよね?連絡は取られたのですか?」
奥さん「Hクリニックはさっき行ってきました」
隊長「行ってきた?」
奥さん「やっぱりインフルエンザが流行っているのね、朝一番で行ったのに20人近くも待つ事になるって言うんです、そんなにはとても我慢できないので一度帰ってきたのですけど…」
隊長「…」

昨晩から発熱し始めたYさんは様子を見ることにし、朝になっても症状の改善がなかったらHクリニックにかかれば良いと我慢していました。起床時、熱は上がっており咳や鼻水、倦怠感もある。

乗用車でいつものHクリニックを訪れたそうです。ところが患者さんでいっぱい、待ち人数は20人ほどにもなったそうです。そんなに待つのは嫌だという事でHクリニックでの診察を諦めて家に帰ってきたとの事でした。…そして救急要請に至ったのです。

奥さん「帰ってきたのはよいけれど…もう歩けなくなってしまって…」
隊長「はぁ、そうですか…」

歩けない?本人は介助なんていらないって…しっかりと歩いていたのに…はぁぁ…。受け入れ先はすぐに決まりました。

病院到着

医師「…そう、それではいつもかかっているHクリニックは混んでいて診察を諦めたって事ですか?」
奥さん「そうなんですよ~、やっぱりインフルエンザが流行っているんですね」
医師「あのね…奥さん、救急車は命の関わるような人のためにあるものですよ、混んでいたから救急車っていかがなものですか?救急車の使い方が問題になっているってご存知ありませんか?」
奥さん「いや…でも、歩けなくなってしまったから」
医師「歩けない?歩けませんか?ねえご主人、ちょっとこの車椅子に座ってみましょうよ、これから検査にも行って頂かないといけませんから」
Yさん「はい」

Yさんはひょんと起き上がりストレッチャーから立ち上がると車椅子に座りました。

医師「動けない?動けるじゃない?しっかりとしているじゃないの?」
奥さん「でも家ではフラフラしてしまって…」
医師「Yさん、とても長い時間は待っていられないと思いましたか?」
Yさん「えぇ、そうなんですよ」
医師「この病院だって今も待合室で何十人も診察を待っていますよ、救急車なら早く診てもらえると思ったのですか?」
Yさん「あは…いや…ほら、まだ診察が始まる時間じゃないから救急車なら待たないで診てもらえると思って…」

Yさんはとても正直な方で、照れ笑いを浮かべて何でも本当のことを話してしまうのでした。その横でばつが悪そうにしている奥さん。

医師「救急車は緊急の方が使うものです、こんな風に救急車を使うのは止めてください」
Yさん「はい…すみません…」
奥さん「…」
医師「…インフルエンザの検査もしましょう、このまま検査室に行ってください」
奥さん「はい…」

医師に厳しいことを言われたYさんと奥さんはしゅんとした様子で診察室を出て行きました。隊員もYさんご夫婦について行き検査室の場所を案内しました。

隊長「先生、ありがとうございました…」
医師「…ふぅ、平然と早く診てもらえるから救急車を呼んだと言う…、こういうのをどうにかしないから救急医療体制は何も変わらないって思いませんか?」
隊長「そうですね…、仰るとおりです…」
医師「…」

怒っている医師、怒りの矛先はYさん夫婦に対して、さらに救急車の適正利用を呼びかけているにも関わらず、こういった事案を運び込んでくる救急隊にも向いているのだと思います…。

「発熱、インフルエンザ疑い 軽症」

検査室に向かう廊下

検査室を案内する隊員、Yさんの車椅子を押している奥さんがこんな事を言っていました。

奥さん「具合が悪い患者に向かってずいぶんと酷い事を言う病院ね」
Yさん「いや…でもまぁ、先生の言う事も分からないでもないよな」
奥さん「そうかもしれないけど…」
隊員「あちらが検査室です、救急隊は引き揚げます」
奥さん「ああ…そうですか、分かりましたどうもお世話になりました」
Yさん「どうも、助かりました」
隊員「いえ、お大事になさってください」

不機嫌そうな表情を浮かべていた奥さん、きっと医師から酷い対応を受けたと思っているのでしょう。もう外来が始まろうとする時間になっていました。救急車に戻ろうと院内を抜けていくと待合室には外来診察を待っている患者さんが溢れていました。あの奥さんの言う通りインフルエンザが流行っているのがその要因なのかもしれません。ここで待っている人はみんな苦しくても順番を待っているって訳だ…。

帰署途上

隊長「Yさん夫婦が診察室を出た後、医師からは適正利用を訴えているくせにこんな事を許していていいの?って…そういう事だと思う」
隊員「先生の言う通りですね…、反論の余地がありませんよ、救急隊が言えない事を全部言ってくれたじゃないですか、こうやってしっかり言ってくれる先生はありがたいですよ」
機関員「でもさ…先生の言う通りだけど、ひとたび住民からの苦情になったら全部オレたちの身に降りかかってくるからなぁ…」
隊員「確かに…実際、診察室を出た奥さんは不満そうな事を言っていましたよ、現場で下手な事を言えば、あの奥さんは黙っていないかもしれませんね」
隊長「救急車の適正利用を呼びかけるのもオレたちの仕事だと思うけど、現場ではリスクが高すぎるよな…」
隊員「こっちも話の通じる人を見ますよね、でも本当は話になる人じゃなくて、話にならない人の方が問題なんですよね…、そういう人にこそ必要な適正利用の呼びかけなのに、それが言えないで小さくなっているんだから…」
機関員「先生の言う事は正しいと思うよ、でも何でも現場に投げすぎ、苦情になれば現場が叩かれるって言うのに…」
隊長「そうなんだよなぁ…、もっと上でやらなくちゃいけない問題だよな…やっぱりオレたちは余計な指摘をされないように、今まで通り活動しような…」
隊員「そうですね、現場では下手な事は言わないに限りますね…」
機関員「はぁぁ…結局はそうなるよなぁ…」

具合が悪い患者に厳しいことをいう医師、酷いことを言われたという奥さん、適正とは思えない救急車の使い方をする患者、適正利用を呼び掛けているくせに余計なクレームが怖いと小さくなっている救急隊、さて、酷いのは…、医師か?患者か?救急隊か?…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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