点滴に毒を入れる病院なんです

溜息の現場

救急隊は様々なトラブルの真っ只中に飛び込んでいく仕事です。 喧嘩、傷害事件などトラブルの果てに怪我人が発生している現場、様々な社会的背景が要因となっている急病、いつもこのサイトで紹介しているとおりです。

そういった状況が予想される場合は、警察官を要請したり、他の隊と連携し複数隊で活動するなど、慎重な活動を行っています。この日のこの活動は明らかにトラブルの現場、しかし何やら風向きが違うのでした。



出場指令

温かい日差しの昼間、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、〇町〇丁目…飲食店〇前路上に怪我人、女性は転倒し足部を受傷、通報は店長のFさん」



出場途上

消防署を飛び出した救急隊、119番通報が入った電話番号に電話を入れます。

(119コールバック)

隊員「もしもし、そちらに向かっている救急隊です、通報いただいたFさんですか?」
店長「はい、そうです店長のFです」
隊員「女性が足を怪我されているとのことですが、状況を教えてください」
店長「えぇ…店の前の段差でつまずいたとかで…怪我をしたから救急車を呼ぶように言われました」
隊員「それはご本人にですか?」
店長「そうです」
隊員「それでは話はしっかりできる状態と言うことですね?足以外にお怪我をしている様子はありませんか?出血などありませんか?」
店長「ありません、大丈夫だと思いますけど…はぁぁ…」
隊員「そちらはレストランですが、患者さんはお客さんですか?おひとり?」
店長「ええ、当店のお脈様なのですが、お会計が終わって退店した後に屋外で転倒したからって…、怪我をしたから救急車を呼ぶようにと、またお店に戻って来たんです」
隊員「なるほど、それでは歩くこともできると?」
店長「ええ、歩いてきました、今は店の前で座っています」
隊員「分かりました、もう少しで到着しますのでお待ち下さい」

何かふて腐れたような店長の対応、何かありそうな雰囲気が感じられました。



現場到着

現場は路上ではなく飲食店の入り口でした。手を挙げている彼が店長のFさん、その横には女性が座り込んでいました。


傷病者接触

隊長「こんにちは、救急隊です」
Tさん「やっと来たわ!私が怪我しているって言うのに救急車を呼ぼうとしないのよ!この人たち!」
隊長「そうですか…お怪我された足はどちらですか?」
Tさん「左足です、ここです、足首がほらこんなに腫れちゃっているじゃない!」
隊長「えっと、左の足首ですね…?ここですか?痛いのは?」
Tさん「そう、あんな段差があるから悪いのよ!お店の安全対策がなっていないのよ!」

腫れている?とてもそうは見えないけどな…。 傷病者は60代の女性でTさん、お店の段差が悪い、従業員の対応が悪い、Tさんは何やらとても怒っているのでした。

隊長「それではTさん、救急隊のストレッチャーに乗ってもらって、救急車の中でよく見せてください」
Tさん「分かりました、どこの病院に行くの?」
隊長「それはTさんのお怪我の様子をもっとよく見せていただいてから判断させてください」
Tさん「それならあなた!ちょっと連絡先を教えて!」
店長「はい、私は店長のFと申します、本当に申し訳ありませんでした」
Tさん「治療が終わったらまた連絡するから!」

店長から名刺を貰うTさん、とにかく怒りの収まらない様子でした。この受け答えの様子、表情、私たちはこの時点でよく分かっていました、精神科疾患をお持ちの方でしょう。それにしても…つまずいたというお店の入り口、その周辺の敷地、大きな段差などないように見えるのですが…。

Tさんを車内収容した救急隊、隊長が状況を聴取、さらに隊員がバイタルサインなどを測定しました。機関員は店長さんからお話を聞くこととなりました。



状況聴取

機関員「患者さんはどこにつまずいたのでしょうか?」
店長「それが…そこらしいです」
機関員「え?どこ?どこですか?」
店長「いや…それが…そこです」
機関員「へ…?」

店長さんが指を刺したのはきれいに並んでいるタイル張りの床でした。タイル張りですからタイルとタイルの間に確かに少しは段差があります。その段差、約1mmというところでした。
店長「それが段差で、それが悪いから怪我をしたと言うんですよ」
機関員「…そうですか、分かりました」

お気の毒さまです…

店長「あの…これってうちが悪いってことになるんですか?」
機関員「いやぁ…どちらが悪いとか、そういう判断は我々がすることではないので何とも、ごめんなさい」
店長「はぁ…、まあ、そうですよね…」

ガックリしている店長さん、因縁をつけられているってまさにこう言うことを言うのでしょう。「肩が触れたから骨折したぞ、慰謝料払えや!」的な…。本当にお気の毒様です。



車内収容

隊長「それではTさん、 お怪我したのは左の足首だけですね?」
Tさん「ええ」
隊長「かかられているご病気はありますか?」
Tさん「統合失調症で○病院にかかっています」
隊長「他にはありませんか?」
Tさん「ええ、ありません」
隊長「今、ここから一番近くの病院だと、S病院という病院がお怪我の対応ができるのですがそちらに連絡します」
Tさん「S病院?」
隊長「ほら、ここからだと通りをまっすぐ行けば左手に見えてくる病院ですよ」
Tさん「ああ!あのS病院ね!あそこは絶対にダメよ!」
隊長「絶対にダメ?S病院はダメですか?」
Tさん「あの病院には昔にかかったことがあるんです、あの病院で点滴に毒を入れられたのよ!」
隊長「どく?毒ですか?」
Tさん「そう、S病院は点滴に毒を入れる病院なんです!看護師に点滴に毒を入れられて、私はそう訴えたんだけど、そんなことある訳ないって、でもこれは絶対に間違いないことなんです!」
隊長「そうですか、それではS病院にはお連れできませんね…」
Tさん「そうです、また毒を入れられちゃうわ!違う病院にしてください」
隊長「それではもう少し遠くになってしまいますが、E病院と言うところがありますからそこから連絡してみましょうね」

医療機関に搬送連絡をしている間にも、Tさんはこのお店の対応にたいへん腹が立ったこと、S病院の看護師に毒を入れられ殺されそうになったことがあるなど…とにかく怒りまくっているのでした。「そんな事を仰らずに、まあまあ」と隊長がなだめるのでした。ふぅ…、この矛先が救急隊に向いたら大変だ…。



病院到着

「左足打撲 軽症」



帰署途上

隊長「お気の毒だったな、あの店長さんも…」
機関員「クレーマーとはちょっと違うのかな…Tさんの場合、何て言うのかな…ある意味、本気だからな、だから余計にたちが悪いかもね…」
隊員「看護師さんに毒を入れられたとか言う訳ですからね…こんなケースがあるとなると、精神科疾患があるなら診られないとか言われてしまう訳だよなぁ…」
隊長「偏見なんだけどね…今のTさんだって悪いのは人じゃなくて病気のせいかもしれないもんな」
隊員「そうですね…精神科疾患の人がみんなそんなこと言う訳じゃないですからね…」
隊長「まだ昼間だから良かったけど、深夜だったらこんな風には病院が決まらなかっただろうな」
隊員「そうですね…そんなことになっていたらオレたちにも怒りの矛先が向いていたかも…」
機関員「あの雰囲気では…町に投書してやるわ!とか言いそう…」


精神科疾患を持っているなら当院では診られません、そんな理由で断ってはいけないのがルールです。しかし、ルールで回っていないのが世の常…。事情も分かる…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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