脱帽しようか

緊迫の救急現場

今回のお話は、私が救急隊員の道を歩き始めた頃、まだ予備隊員の頃に補欠に出た先で組ませていただいた隊長とのお話です。後に私はこの隊長の下で正規隊員になることになりましたが、この隊長が尊敬でき見本にすべき隊長であると確信した時のお話です。今日はちょっと良いお話です。


出場指令

「〇救急隊、〇消防隊出場、○町○丁目…A方、50代の女性は意識なし」

119番通報のあった電話番号にコールバックするも応答はありませんでした。


現場到着

隣町の出場に先着したのは消防隊、消防隊員たちがAさんの家に入っていくのが確認できました。救急隊も消防隊に遅れること約1分、資器材を携行してAさんの家に入りました。


傷病者接触

傷病者は50代の女性でAさん、ソファーに半座位になっていました。消防隊員が脈拍と呼吸を観察していました。部屋には何やら焦げたような変な臭いがしていました。

消防隊員「呼吸が…感じられません」
隊長「了解、観察代わります!」

救急隊長が消防隊員と交代し再度、傷病者の状態を確認します。

隊員「隊長、AEDの準備をします!」

隊員は慌ててAEDの準備にとりかかりました。
隊員(大変だ!たいへんだ!これはCPAだ!タイヘンだ!)

慌てふためいてAEDを準備する隊員…。救急隊が絶対行うべきでないことは慌ててしまうことです。緊急の現場でパニックに陥る家族、関係者の中でその場に飲まれてしまってはプロの仕事はできません。

こういう時にこそ一息、深呼吸でもして、さて何からするのが傷病者にとって最も有益だろうか、そう考えて行動する、そんな余裕が必要です。当時の私はまだ救急資格を取ってきたばかりの予備隊員、恥ずかしい話ですが、CPAの現場でとにかく早くAEDの準備をしなくてはと慌てふためいていました。

(CPAだ!大変だ!心臓マッサージだ!人工呼吸だ!それから…えっと…それから…)

隊長「CPAだな…待て!慌てるんじゃない!」
隊員「…」
隊長「待てって!AEDの準備を止めろ!」
隊員「はい…?」

隊長の声が入っていない、隊長からの下命が良く分かっていないのですから隊員失格です…。

隊長「ほら…落ち着いて傷病者をよく見てみろ」
隊員「はい…これは…」
隊長「顎、それから他の関節部分も…この指だって死斑だろ」
隊員「はい…モニターを取ります」
隊長「ああ…」

傷病者はどう見てもCPA、しかもかなり時間が経っているようでした。下顎はすでにカチカチに硬直し開口ができない、硬直は全身に及んでいる状態、心電図波形も心静止でした。

隊長「全身に硬直が及んでいるだろ?瞳孔だって…ほら、もうほとんど混濁しているような状態だ。亡くなってもう大分経っているよ」
隊員「はい…」

死の判断ができるのは医師だけですが、救急隊は社会死状態であると判断することがあります。社会死とは社会通念上、誰もが死んでいる状態であると判断できる状態にあること。

具体的には頭と胴体が繋がっていない状態、腐乱している状態など…、今回のAさんのように全身に硬直が及んでおりストレッチャーにも乗せられないような状態にある場合などです。社会死状態にあると判断した場合は、不搬送とし警察官に引き継ぐこととなります。

隊長「消防隊長、社会死状態と判断します、ご家族はいますか?」
消防隊長「了解です、ご家族の方、救急隊の者からお話がありますから、こちらへどうぞ」

隣の部屋で通報者から情報を取っていた消防隊長が通報者の家族を連れてきてくれました。通報者はAさんのお母さんでもう80代になろうかというおばあちゃんでした。

隊長「Aさんのお母さんですね、今、私たちが娘さんを良く見せていただいたのですが…残念ですがもう亡くなってから大分時間が経っているようです。全身が固まっている状態になっています。もう、私たちがお力になれることはありません」
母親「…あら…そうですか…、そうですか…、分かりました…、この子、乳がんだったんです、もう先がないのは分かっていましたから…、救急隊の方もありがとうございました」
隊長「いいえ…何もお力になれませんでしたが…」
母親「いいえ、そんなことありません、ありがとうございました」

Aさんのお母さんはありがとうと何度も何度も私たちに頭を下げるのでした。

隊長「脱帽しようか」

そう言うと救急隊長はヘルメットを脱帽してその場に正座しました。隊員も言われるがままに同じようにしました。

隊長「これから警察官が来て、この後のお話をしてくださると思います。私たちは何もお役に立てませんでしたが仏様に手だけ合わさせていただきます」

そう言うと隊長は脱帽しマスクをはずして傷病者に対して手を合わせ冥福を祈ったのでした。

隊長「さあ…帰ろう」

Aさんのお母さんは玄関まで私たちを見送ってくれ、最後までありがとうありがとうと何度も何度も頭を下げたのでした。何の役にも立ててないのに…。


引き揚げ準備、救急車内

Aさんの家を出るとちょうど警察官が到着しました。

隊長「オレが警察官に事情を説明するから資機材の撤収と本部への報告をやっておいてくれ」
隊員「了解です」

準備した資器材を救急車に戻し、再出場に備え点検を行います。機関員は状況を本部に報告しました。警察官に引き継ぎを終えたら引き揚げることになります。

隊員「傷病者のお母さん…何度も何度も頭を下げて、ありがとうって、何もしていないのに…」
機関員「そりゃあ、お前、うちらの隊長に対してだよ」
隊員「隊長に?」
機関員「オレも長いことこの仕事やってるけどさ、あんな人はなかなかいないぜ、家族に対する姿勢、説明、分っただろ?どんなに疲れていてもいつもあの感じだ、オレにはとても無理だよ…」
隊員「…はい、オレもとてもとても…接遇とか、言葉遣いとか…そんなの以前の問題で…」
機関員「お前は余裕なさすぎ」
隊員「すみません…」
機関員「救急でやっていくつもりなんだろ?救急資格を取ってきたばっかりだ、救命してくれてありがとうって、この仕事はそればっかりじゃないってことだな、…いや、むしろ、そうじゃない現場ばかりだ」

この時、資機材の撤収をしながら思ったものです。「ああ、この隊長の言うことなら間違いない、人間としても尊敬できるすばらしい人だ」と。

後に私はこの隊長の正規隊員となり救急現場のイロハを叩き込んでいただきました。今でも遠い目標です。食事も睡眠も摂れず泣いている激務の救急隊でも、尊敬できる隊長の下で仕事をさせていただいた経験は今でも財産になっています。


帰署途上

隊長「AEDの準備を急ぐのは悪くないけど、それはあくまで傷病者の観察があってからだからな」
隊員「はい、分かりました、すみませんでした…」
機関員「部屋の外で別の家族の方から事情を聞いたんだけどさ、Aさんは朝からずっとあんな感じだったんだって、寝ていると思って誰も声をかけなかったらしいよ。もう亡くなってから少なくても7、8時間は経っているよ」
隊長「それにしても部屋の臭い、すごかったな」
隊員「ええ、あれ何の臭いだったんですかね?」
隊長「おいおい…分からなかったのか?まだ傷病者観察がなってないなぁ」
隊員「…すみません」
隊長「Aさんの前にストーブがついていただろ、あれのせいだよ。Aさんの両下腿部が水ぶくれになってた。意識を失ってあのままの姿勢だったから熱で焦げちゃったんだろうな」
隊員「そうだったんですか、下腿部まで全然目がいきませんでした」
隊長「救急隊員がそれじゃダメ、落ち着いて視野を広く持たないとな」
隊員「はい、頑張ります!」

誰でも駆け出しの頃があるものです。あれから数年の月日が経って組んでいる隊長も代わりました。

隊長「そうじゃない!もっと視野を広く見て活動しろ!」
隊員「はい!すみませんっ!」

あまり進歩していないような気もしますが…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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