溜息の現場
救急隊の例外的な活動に転院搬送と呼ばれるものがあります。診察した患者さんが科目外や重傷度が高すぎて対応できない、もっと大きな高度な処置のできる病院で対応する必要がある場合など、医師が判断し移送するため救急隊を要請するものです。（参考：緊迫の転院搬送）
転院搬送では出場先はクリニックや病院なので、傷病者は既に医師の管理下にある訳です。傷病者の年齢や性別、バイタルサイン、どんな病態でどんな理由で搬送しなければならないのか、既に医師が判断を下し処置まで行われています。
緊急事態には違いないのですが、現場には医療従事者がいて、整った設備があるのです。病院からの救急要請なら少し安心、通常の活動よりも迫られる判断が圧倒的に少ないのです。（そもそも緊急性に疑問のある転院搬送事案もあります。参考：緊急性は？困った転院搬送）
この日も病院からの要請、転院搬送だと思ったら、実は…
出場指令
「救急出場…○町○番○号（病院の住所）…」
機関員「Ａ病院の住所、転院搬送だな」
隊員「Ａ病院からなら安心ですね～」
「…Ａ病院の公衆電話からの通報、男性は腹痛、通報は本人から、なお付加する情報があります」
隊長「Ａ病院の公衆電話からの救急要請？転院搬送じゃない…？」
機関員「付加情報あり…いわくつきの現場、確定…」
付加情報とは指令で流せないような内容が伝達されることが多いです。指令台が鳴った。
隊長「はい、出動する救急隊の者です」
本部「ただ今の指令の付加情報です。Ａ病院正面玄関の公衆電話からの通報です。Ｈと名乗る男性は腹部の痛みを訴えています。こちらからもＡ病院にかかるよう伝えたのですが…待ち時間が長いから救急車を呼んだと…かなり強い口調でとにかく早く来るよう訴えています。大分言動が荒いので活動には充分に注意してください」
隊長「Ａ病院にすでにいる方なのですよね？救急隊は他の病院に搬送するってことですか？」
本部「詳細は分からないので…ひとまず現場で対応してください」
隊長「…了解しました」
病院からの要請だからひと安心なんて大間違い…、トラブルの臭いがぷんぷんする現場です。
機関員「まったく…冗談じゃないよ、そんなの救急隊の業務じゃないよ」
隊長「気をつけて活動しよう…、トラブルの渦中に行くようなものだぞ…」
隊員「はぁぁ…了解です」
現場到着
A病院はこの辺りの地域医療の核となっている大病院です。救急車が通常の救急入り口ではなく、正面玄関に緊急走行でやってきたものだから、何事かと警備員たちがやってきました。
警備員「遠方の隊ですか？救急入り口はこの裏ですよ」
隊長「いいえ、病院の正面にある公衆電話からの要請なのです…」
警備員「えっ！？えぇ～！」
女性が手を振ってこちらに向かってきました。
女性「こっちで～す、お願いします」
隊長「はい！分かりました、案内してください」
警備員「ああ…事情は分かりました…私は他のスタッフに知らせてきます」
隊長「ええ…お願いします」
傷病者接触
傷病者は４０代の男性でＨさん、待合室のベンチに横になっていました。案内をしてくれた女性はＨさんの奥さんでした。
隊長「救急隊です、どうされましたか？」
Ｈさん「腹が痛くて仕方がないんだ、どこか他の病院に連れてってくれよ」
奥さん「申し訳ありません、私がトイレに行っている間に主人が１１９番したって言うから…本当に申し訳ありません」
隊長「診察を待っているということですか？」
Ｈさん「ああ、この病院クソなんだよ、もう１時間以上も待たせやがって！」
奥さん「何言っているのよ、順番じゃない！」
Ｈさん「痛てえんだよ、待っていられねえんだよ！はじめから救急車で来れば、こんなに待たされることなんてなかったんだ！お前が救急車を呼ばないからこんなに待たされてるんじゃねえか！」
奥さん「大きな声出さないでよ、あなたの言っていることは無茶苦茶よ！本当に申し訳ありません」
待合室に響き渡る怒号。Ｈさんは強い剣幕で他の病院に連れて行けと訴え、ずいぶん待たされていると怒り心頭、奥さんに罵声を浴びせています。周りを気にしてペコペコ謝る奥さん。こんなに大騒ぎできるくらいに…元気じゃないか…。
隊長「それではこちらの病院で一度は受け付けをしているってことですか？」
奥さん「そうです…すみません…」
Ｈさん「だから待ってられねえんだよ！とにかく腹が痛いんだよ！とっとと他の病院に連れてってくれよ！」
隊長「Ｈさん…救急車は緊急の方を病院へ搬送するためにあります、ここはこの辺りでも一番大きな救急病院ですよ」
Ｈさん「だから待ってられないって言っているだろ！早く他に行ってくれよ！腹が痛いんだよ！」
話が通じない…。そこへ警備員に連れられ、この騒ぎを聞きつけた医師や看護師がやってきました。Ｈさんと医師が話をすること数分、結局、このＡ病院で診ることとなり看護師が持ってきたストレッチャーにＨさんは移されました。
Ｈさん「ほらみろ！救急車を呼べばすぐに診てもらえることになるじゃないか！最初から救急車を呼べば済んだんだよ！」
奥さん「…」
Ｈさんは看護師が引くストレッチャー上でも奥さんをののしり続け処置室の中へと消えていきました。
医師「はぁぁ…悪かったね、うちで診ますから…」
隊長「いいえ、先生よろしくお願いします…はぁぁ…」
「不搬送 本人辞退」
帰署途上
本部「そうですか、了解しました、お疲れ様でした」
隊長「ええ…これより引き揚げます」
本部に状況を報告し救急隊は帰路につきます。
隊長「通報を受けた段階で断らなくてはいけない事案だよな…」
機関員「ホント…これじゃ救急車が足りなくなるはずだよ」
隊員「それにしても…わがまま放題でしたね、あの人…」
隊長「ああ、みっともないよな？大人のすることじゃないよ…」
機関員「これで彼はさらに思うんじゃないの？救急車を呼ばないと損だって…」
隊員「救急車なら待たないで診てもらえるって思ったでしょうからね」
何の解決にも繋がらないのですが、病院だって待合室であんな騒ぎを起こされたらたまらない、だからとりあえず処置室に入れたのでしょう。わがまま放題、やりたい放題…。こんなことを許してはいけないのですが、やったもん勝ち…。痛くたって、苦しくたって、まじめに順番を守っている他の患者さんたち。モラルとは？ルールとは？守っている人が損をしている…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか？今、本当に救急車が必要だろうか？と。
すべては救命のために
この記事に対するご意見・ご感想をお待ちしています。twitterなどSNSでのコメントを頂けると嬉しいです。
