保険証が使えない

仰天の現場

救急隊の活動は様々な社会問題に接する機会に溢れています。まさに社会問題のるつぼ、最前線、そんな現場の話です。

出場指令

夜の消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、〇町〇丁目…、〇号室、E方、腹痛、通報は女性本人から」

との指令に救急車は消防署を飛び出しました。

出場途上

救急車の後部座席から救急隊員が119番通報のあった電話に連絡を取ります。

(119コールバック)

隊員「119番通報いただいたEさんですね、救急隊です」
Eさん「はい…、私です…」
隊員「ご本人ですね、腹痛と伺っています、状況を教えてください」
Eさん「はい…、ずっと腹痛はあったのですが…今日はもう…とにかく酷くて…」
隊員「そうですか…ずっと前からとは、いつ頃からでしょうか?」
Eさん「えっと…、もうひと月以上前からです」
隊員「ひと月以上ですか…、医療機関にはかかっていますか?」
Eさん「いいえ…かかっていません」
隊員「症状はずっと前からなのですよね?近くのクリニックなどにもまったくかかっていませんか?」
Eさん「はい…、病院には行っていません」
隊員「分かりました、間もなく到着できますので安静にお待ちください」

聴取した内容を隊長と機関員に報告します。

隊長「症状はひと月以上前からか…緊急性はなさそうだな」
機関員「やれやれ…なら何で今、救急車なんだ…?」
隊員「話はしっかりしています、どこの病院にもかかってないって」

救急車は緊急車両です。ひと月以上前から症状があるにも関わらず病院にはかかっていない、慢性的な症状なのに緊急車両を要請してしまう、困った救急要請のなのでしょうか…。

傷病者接触

昭和の臭いがしそうな古いアパートの前に停車、傷病者の部屋に向かいました。 傷病者は40代の女性、玄関を入って奥の薄暗い部屋の布団上で待っていました。

隊長「こんばんは、救急隊です、上がらせてもらいますよ」
Eさん「…はい、お願いします」
隊長「お部屋の電気をつけさせてもらいます」
Eさん「どうぞ…」

このように受け答えはしっかりとしており、予想通り緊急性は乏しそう…ん!?これは…

隊長「腹痛でしたね…そのまま安静に、お話を聞かせてください」
Eさん「はい…」
隊員「こちらの手で血圧を測らせてください」

尋常じゃない…。Eさんの顔色はまっ黄色、ガリガリに瘦せているにも関わらずお腹だけが大きく膨れ上がっていました。

隊長「症状はひと月以上前から…でしたね?」
Eさん「ええ…」
隊長「ひと月ではないでしょ?もっと前からなのではありませんか?」
Eさん「はい…正確には覚えていないですけど、時々お腹が痛むのはもっと前からです」
隊長「このお腹は?数日でこんな風にはなりませんよね?徐々に大きくなったのですよね?」
Eさん「はい…、これもひと月以上前からです」
隊長「お腹を触ります、それからお洋服をめくりますよ、よく見せてください」

Eさんの主訴はお腹が張って痛いこと、バイタルサインは特に問題なし。しかし、黄疸が著明、眼球は黄染、お腹はパンパンに膨れ上がっており腹水著明、さらに腹壁静脈が怒張しており肝硬変の症状がそろっていました。

隊長「食事はちゃんと摂られていますか?」
Eさん「いいえ…食べてもすぐに吐いてしまって、もうずっと食べていません」
隊長「お酒は?一日にどのくらい?」
Eさん「さあ?分かりません…」
隊長「今日は飲んでいますか?」
Eさん「いいえ、昨日からお酒も飲みたくなくて…」

Eさんの部屋に生活感はなく、部屋の隅には4リットルの焼酎のペットボトルが数十本転がっていました。まさに進行した肝硬変の典型症状でした。酒に溺れていることは明らかです。

隊長「Eさん、肝臓が悪い方に見られる典型的な症状がいくつも出ています、これからあなたを病院にお連れしますが、何で今まで病院に行かれなかったのですか?」
Eさん「保険証が使えないので、それで…」

Eさんはこれまでのことを語り始めました。夫からの長年の暴力から逃げ出し、このアパートに隠れて暮らしていること。夫の扶養に入っているので保険証は持っているが使えば居場所がバレてしまうかもしれない、だから病院に行けなかった。

隊長「…なるほど、そうでしたか、私たちは支払いのことについては全く関与できませんが、医療機関に事情は説明しておきます、すぐに診てもらわないといけませんよ」
Eさん「はい…よろしくお願いします」
隊長「もちろん、ご主人に連絡する必要はありませんが、他にご家族はいますか?」
Eさん「はい…遠方になるのですが…兄がいます」
隊長「駆け付けていただくことは?」
Eさん「今日は無理だと思いますが、必要であれば明日以降であれば駆け付けてくれると思います…、でも、迷惑をかけたくない…」
隊長「Eさん…お気持ちは分かるけど、そんなことを言っている場合ではないですよ、しっかり治療を受けないと…」
Eさん「はい…そうですね…」

救急隊は医療機関に事情を説明し選定、受け入れ先は割とすぐに決まりました。

「肝硬変 中等症」

引き揚げ途上

隊長「やるせないね…」
機関員「病院に行かなかったではなくて…行けなかった訳か…」
隊長「前にもあったよな?保険証を使えば夫に居場所がバレるかもしれないって病院に行けなかった女性を扱った事案
隊員「はい、やっぱり酒に溺れていて…、黄疸、腹水、あの時は下血もありましたね…」
隊長「支援の仕組みはあるんだけど…伝わらなければどうにもならないよな」
隊員「病院にはケースワーカーもいるし、これで支援の手も届くようになるんじゃないですか」
隊長「だと良いけどな…」
機関員「支援の手が届いても…あの黄疸、腹水手遅れでなければ良いけどね…」

どんよりと暗い帰署途上の救急車内、救急隊の活動は時に社会問題の最前線です。様々な問題のための支援や取り組みがあっても、苦しんでいる人たちに届かなければ意味がない。「救急車の適正利用を」どこの自治体も訴えているけど簡単に伝わるはずがありません。届けるって難しい…。

このお話には残念な続きがあります。それはまた今度。

(参考:配偶者からの暴力被害者支援情報

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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